第9話(後編)

「私に付き合ってくれてありがとう」


 それは、『鍛錬』という名の練習試合が終わったあと、宮廷の内庭で寝転がっていたときの話だ。たしか百試合ほど剣を交えただろうか。青空が遠く、ひどく高かったことを覚えている。


「いや、私も楽しめた。こちらこそ感謝を述べよう」


 試合の相手、隣で立っていたヒーライトは頭をふかく下げた。

 それに対して私は笑わずにはいられなかった。


「ふふっ、私の仕掛けには一切ひっかからなかったがな。さすがは国の宝剣に認められし騎士さまだ」


 結果は見ての通り、全敗だった。しかも、ヒーライトのほうは汗一つかいていない。その余裕さは通常なら癇に障るものだろうが、彼女のそれはただただ美しく、笑ってみせる。


「いや、ナイティス殿の剣技も見事なものだった。あの多種多様な攻撃は、試す若さと実戦経験の両方が必要だ」

「そうは言うが、もしヒーライト殿と真剣勝負した日には、一個の攻撃を試すまえに、気付いたときには死んでいそうだ」

「はは、私とそなたが真剣を持って戦うなど、なかろうて」

「———ああ、そのことを切に願うよ」

 私のため息は青空に吸われていくのを感じた。それも仕方ない、と思うしかなかったのだ。私が一生を懸けてもたどり着けない存在を目の当たりにしたばかりなのだから。


 ………

 ……

 …


 その手には、———抜き身の剣を携えていた。決して旧友との再会を祝福しようという雰囲気ではなかった。……というより、なぜか彼女のそれは、女神の微笑みではなく邪悪な笑みに感じた。


 オークとヒーライトのあいだに割ってはいる。オークを守るように鞘に納めたままの剣を構えて。


 ———ああ、私はなにをやっているのだろう


 私が今やっている行為は無論、反逆罪にあたる。極刑は免れない。それに相手はあの軍神だ。学生のころからその活躍を見ていた私には、そうそう逃してはくれないことくらい理解できた。


 ———いや、今更、弱音を吐いても仕方がない! 体が動いてしまった……ならばもう、進む道はひとつ!


「話を聞いてください! ヒーライト殿!」


 しかし、彼女は私の声に反応しない。じっ……、とオークのほうを見つめているだけだ。


 ———交渉の場にすら立たせてもらえない、……か


 ヒーライトがここにいるなら、きっと外には見張りがいるはずだ。一縷の望みだった話し合いもできそうにない。


 ———はは、絶体絶命だな


 乾いた笑いが喉のおくをくすぐる。もう、腹をくくるしかない。


「オイ、ナニヲ……」

「……なに、まだ、『約束』を果たしていないからな」


 一拍の呼吸をしきり、力んだ手をしなやかに構えなおす。この鞘は少なくとも、木剣の代わりくらいにはなる。


 ———ヒーライトと戦って勝つ


 ———外にいるであろう兵士の間をかいくぐる


 ———ふっ、一つ一つ難問だな……しかしっ!


 それしか『約束』を守る道がないのなら、私は———!


 覚悟は、できた。


 学園のころの、将来を語り合った旧友。

 その昔、鍛錬に付き合ってくれた戦友。

 そして今、目のまえの敵———ヒーライトを見据える。


 彼女に弱点があるとすれば、一つ。

 それは


 彼女は運動能力も高いが、知覚能力も高い。いや、高すぎる。

 これはにしか過ぎないが、筋肉や目線の動きからほぼ完璧に近い未来予測ができるほどだ。フェイントなどの小細工はまず通用しない。

 だが、もしそこにをかけられれば、あるいは。

 しかし、この魔法には呪文詠唱がなくてはならない。時間稼ぎが必要だ。問題はこの剣がそれまで耐えられるかどうか。


 足裏を強張らせ、前傾姿勢になる。

 一瞬の静寂。


 そして。

 次の瞬間。

 前へ跳ぶと同時に、呪文を唱えはじめる。


 ———イグゥっ!


 私の鞘は大きく一文字いちもんじを描く、はずだった。

 いつのまにかに、ヒーライトは剣を持った腕を上げていた。かこんっ、と切りとられた鞘の先が床に転がる音だけが響く。


 ———あああぁらめぇええええ!


 剣筋が、まったく目視できなかった。しかし、それを言及している暇はない。なぜなら、ヒーライトの剣は切るためでなく次の一撃のためにもう、すでに振り上がっているのだから。

 刀身が半分になった剣を頭にかざす。

 だが、その切っ先はすでに眼下にあった。


 ———それいじょうはひちゃらめぇなのぉぉおおおぉぉおお!!


 鞘の刀身は、消えていた。柄から先が無くなっていた。

 あと、もう少し。もう少しで詠唱が完成する。耐えてくれと切に願う。


 しかし。


 音よりも、光よりも高速な一閃は、否応なしに飛んでくる。

 気付いたときには、持っていたはずの柄が手からなくなっている。遅れて、背後からことんっと音が聞こえた。


 ———まっしろでわかんないのぉ! まっしろなにょぉおおお! ぽこぽこちんのすけなのぉぉおおおおぉぉぉおおおおお!


 とっさに、私は体の正中に腕を構える。

 もう、肉体を削る以外に自分を守る術はない。

 切り捨てられる覚悟で。


        

 私は最後の一文を……。


 ———にゃにがにゃんらかぁ! わからなくなりゅのぉぉぉおおおおおおぉおおぉぉおぉおぉおおおおお!!!!


 ……言い、切る!


 詠唱は完遂した。

 勝機———の、はずだった。

 なのに。ヒーライトは笑みを、勝利の笑みを浮かべていた。


 あのタイミングの詠唱。

 切られていてもおかしくない。

 しかし、身体に異常はない、ようだった。

 逆に、そのことが恐ろしく感じた。


 はっ、と目を見張る。

 ヒーライトの手には、両手には、いつのまにかに二つの剣を携えていた。

 一つは彼女の愛剣。

 もう片方はさっきまで手に持っていなかったはずのもの。国より授かった聖剣、【全ての魔を絶つ剣エクスカリバー】。


 ———まさか、魔法を丶丶丶詠唱を切られ丶丶丶丶丶丶……っ!


 気付いた時にはもう遅かった。


「しまっ———!」


 ヒーライトは、その一瞬の隙を見逃さない。いともたやすく瞬間を縫って、私の脇を通りすぎる。反応するのにはもう遅すぎた。目的は最初からオークだけだった。そして、それは目の前———あと、数センチ。


 ヒーライトは剣を振りかざし———。


「まっ———?!」

 ———待ってくれ、ヒーライト殿!


 しかし。

 私の予想に反して、その剣は切りかからなかった。


 両手をオークの首に巻きつけて、足先から頭まで伸ばしきり、オークに……口付けをした。

 彼女の手から剣が溢れ、床に落ちるまでのあいだの数秒に満たない出来事だった。しかし、あまりの衝撃的な光景に、金属の落下音なんて耳をすり抜けて、まったく聞こえなかった。


 ———っ?! 接吻キスだとっ!?


 ようやく思考が現実に追いついたが、現実はさらに先に展開を加速させる。

 あのオークの巨体を、押し倒した。

 オークより頭二個分は背が低いヒーライトだったが、それだけ、彼女には勢いとチカラがあった。


 ———と、止めなければ!


 なにをどう止めるのが正解なのかはわからない。それでも止めなくては、と思った。


「ヒーライト殿っ!」


 声に反応してか、ヒーライトは顔をあげた。そのキスは時間にして数秒だったかもしれなかったが、体感はその何倍も長かった。


 ヒーライトはやっと唇を離した口で、言葉を細切れにして———


「お」


「ひ」


「ん」


「ひ」


「ん」


「!」


 ———と、言った。


「ヒーライト殿っ!?」

 なにをトチ狂っていらっしゃるのですか?!


 声を荒げずにはいられなかった。

 だが、言葉など蚊帳の外で、ヒーライトは嬉々とした表情で股間をまさぐる。


 が。しかし。


「?」


 ヒーライトは目をまん丸にして、首を傾げる。当然ながら、そこにはなにもない。なぜならオークは女性なのだから。

 それでも、ヒーライトはなんども首を傾げてみせた。


「おひんひん……? おひんひんは?」


 それは、まるで大切な約束を反故にされた子供のようだった。無垢な疑問符を頭上に掲げる。そして、その約束が果たされることがないと気がついた瞬間、目尻から大粒の涙がぶわぁっ、と溢れた。


「おひん……ひんっ……おひっ……お、おひん……っひ……! なぃ…よぉぉっ! おひんひ……がなぃっ……!」


 彼女は泣いた。駄々っ子のように泣き喚いて、失恋した乙女のように泣き崩れて、……さめざめと泣いた。


「かむばぁぁっくぅおひん、ひぃぃぃぃいいいいいぃぃいいいぃぃいいいぃぃいいいいいっんっっ!!!!」


 その声は森全体に響かんとするほど力強く、そして儚かった。


 オークと私は、鏡のように顔を合わせた。困惑のような、怪訝そうな、形状しがたい表情だったが、私も同じ表情をしているとわかった。


 私はなぜか一言———「すまない」と言わずにいられなかった。

 しかし、泣き崩れたヒーライトは戦意喪失の状態にある。張りつめていた緊張が解けて、私はかるく一息ついた。




 ———このときすでに、森に潜んでいた騎士たちが、ヒーライトの悲鳴に駆けつけようとこの家に突入したことも知らずに。

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