第32話 本の虫

 アリマはゆっくりと鍵を回した。カチャリ、と小さな音が立ったのを聞き、静かにドアを開ける。地下の冷えた空気が流れ出してくる。

 明かりをつけ、地下室への階段を進めば、下りきったところで通路は終わり、その先は部屋になっている。入口右手にあるスイッチを押せばその部屋にも明かりが灯る。

 天井の低い部屋を埋め尽くす本棚、そして並べられた本たち。目についた一冊を手に取る。古い本の持つ独特のにおい。彼はそれが嫌いではなかった。

 この部屋の存在を知っているのは、世界に彼と、彼の母親ただ二人だけだ。



 「人類に重大な害を及ぼすもの」として、紙の本の製造、所有が法で禁じられたのは二十年前。アリマが生まれるより前のことだ。だから彼は、世の中に「本」が流通していた時代のことを伝聞でしか知らない。

 はじめは、法を犯す者も少なくなかったらしい。大勢の書籍愛好者が、彼らを相手に金儲けを企てた連中が、逮捕されては刑罰を受けた。死刑になった罪人もいる。あらゆる言い分に対し一切譲歩を見せない警察・国家を前に、反抗する者も少なくなっていった。現在では、秘密裏に本を所有していた誰それが逮捕された、というニュースを見ることも滅多になくなった。紙の本がない世界が当たり前になっている。

 ――けれど、全ての本が滅びたわけではなかった。誰にも知られないように本を隠し持っている人間は確かにいるのだ。

 アリマの父もそんな犯罪者の一人だった。

 書物禁止法が施行された時、彼は秘密の地下室に蔵書を隠した。いつかきっと、法が改正され、紙の本が復権する日が来る。その時に滅びたはずの前時代の本があれば、大枚をはたいてでもそれを買い漁る好事家がいくらでもいるはずだ。「これは宝の山なんだ」と、父はかつてアリマに語った。そんな父も昨年、交通事故でこの世を去った。結局彼は、夢の大金持ちにはなれなかったのである。

 父親亡き後、地下室はアリマが受け継いだ。母は二十年の間夫と秘密を共有してきたものの、それを宝とは思えないようだった。父の死以来たびたび地下に入り浸っては形見を読みふける息子に、彼女は顔を顰めて言うのだ。

「そんなに本ばっかり読んで、本の虫になるわよ」



 本の虫、という表現を、アリマは本で読んで知っていた。今の時代にはまず使われることのない言葉だ。

 なるほど母親の忠告ももっともだというくらい、アリマは本が好きだった。狭苦しい地下室で、誰にも内緒の楽しみ、という点が余計に人の欲望を駆り立てるのかもしれない。

 父が生きていた頃は自由に出入りできなかった。今は自分が鍵を持っている。好きな時に好きなだけ本が読める。椅子とテーブルを持ち込んで、読書の環境も整えた。

 紙の本というものを読み慣れていないので、最初は一度に10ページほどだった。そのうち30ページになり、100ページになった。階段の上から呼びかける母に返事するのが億劫だった。

 一日一冊読むようになった。一日二冊になった。もっと読みたくなった。母の呼び声が聞こえなくなった。

 もっと読みたい、もっともっと読みたい。もっとたくさんの本を。

 ページをめくる指が細く尖ってきた。めくりにくくてイライラする。

 椅子が小さくてぐらぐらする。煩わしいので椅子もテーブルも砕いて部屋の隅に寄せ、床に腰を下ろした。体を丸めて本を抱え、四本の足で体を支えると快適な体勢になった。

 腹が減ったので、読み終えたページを破って食べた。本に美味い不味いがあることを知る。ハードカバーの表紙は特に歯ごたえがあっていい。



「手を上げろ!」

 本の世界に没入する幸せな日々は、突然の闖入者によって妨害された。スーツ姿の男だ。アリマは一瞬だけそちらに視線を向け、すぐに本の世界に戻る。食べかけのページを咀嚼した。

「遅かったか」

 見知らぬ男はそう呟き、背後に合図を送った。彼は身を引き、入れ違いにものものしく武装した男が二人、地下室へと入って来た。彼らは掛け声もなく、構えた火炎放射器から高温の炎を噴射する。

 炎を浴び、アリマは悲鳴を上げた。ギイイイイ、と金属を引っ掻くような音がその口からほとばしる。身悶える彼に攻撃は容赦なく続けられ――やがて、炭と化した本棚に囲まれ、炭と化したアリマは動かなくなった。

 階段の上では十数名の機動隊が待機し、手錠をかけられたアリマの母が顔を覆って泣いている。その傍らに立つ、指揮官たるスーツ姿の男が、苦々しい表情で呟く。

「また、本の虫が生まれてしまったか……」

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