第14話 タクシーの怪

 小雨の降る夜。柏木は一人、車を走らせていた。

 そろそろ夏の気配も見え隠れする季節だが、雨の夜にはまだ少し肌寒い。

 こんな夜にわざわざ出歩く奇特な人間がそう多いはずもなく、儲けの方は芳しくない。一度駅前に戻るかと進路を変えた時、道端で手を振る人影が目に入った。急停止はできないのでほんの少し通り過ぎたところに車を停める。

 客は若い女だった。気付くのに遅れたのは、彼女が傘をさしていなかったからだ。

 乗り込んできた彼女は、ずっと雨の中に佇んでいたというわけではないらしいが、それでも額に貼り付く前髪からは滴が垂れ、灰色のスーツはそこかしこが色を濃く変えている。彼女が座ったシートは濡れてしまっただろう。

「××駅までお願いします」

 急いだ様子で彼女はいった。目的地はひとつ向こうの駅だ。車を発進させる。


 車通りの少ない夜の道を走る。雨脚が強くなってきた。外界の音が水に吸い込まれて、タイヤが水を跳ねる音だけが近く聞こえる。

 ――こんな夜に、タクシー運転手はどうしても考えてしまうことがある。

 暗い夜道で女が一人、タクシーに乗ってくる。妙に生気のない女は、確かに後部座席に乗っていたはずなのに、気が付いたら消えていなくなっている。そして女の座っていた場所には、水に濡れた跡だけが残される――。

 定番の怪談だ。本気で夜道の女客を恐れるタクシー運転手はいないだろうが、話のネタとしては優秀に違いない。

 今日の客は少なくとも幽霊には見えなかった。肌が土気色ということもなく、やたら長い前髪を垂らしている、ということもない。

 しかしどこか様子がおかしい。

 そわそわと落ち着かない様子で、しきりに窓の外を気にしている。最初は急いでいるのだろうと思ったが、それにしては時計を見る気配がない。

「お客さん、どうかしました?」

 ちょっとしたお喋りは仕事のうち。その程度の意識で、柏木はバックミラー越しに彼女に問うた。

「いえ、別に、何でも」

 ミラーの中の彼女と目が合う。

「あの、止まらないでください」

「え?」

「車。止めないでください、走ってて」

「はぁ……」

 言われずとも、意味なく停車などしない。

 どうも妙な客を拾ってしまったようだと、柏木は内心で思う。妙なトラブルに巻き込まれなければいいが。

 そうこうするうち車は市街地へと入っていく。大きな道の両脇にまだ明かりを灯した店が現れ始め、視界がぐんと明るくなる。

 何だかんだと不安を感じていたのだろうか。人の気配のある場所に若干の安堵を覚えながら柏木は再度バックミラーで背後の様子を見た。そして顔を引きつらせる。

 女は怪談のように消えてはいなかった。

 ただ、湛えた両目を大きく見開き、恐怖に怯えた形相でこちらを見ていた。いや、違う。柏木ではなく、バックミラーを見ている。バックミラー越しに「何か」を見ている。

 女の頬がわなわなと震える。今にも叫び出しそうな、しかし恐慌のあまり声の出ない口が開いては閉じてを繰り返す。今にも目玉が零れ落ちそうなほど見開かれた両目は血走っている。まるで、恐ろしい「何か」が、すぐ眼前まで迫っているかのように――。

 知らぬ顔で運転を続けるのは不可能だった。

 柏木は急ぎ道路脇に車を停めると、後部座席を振り返った。

「お客さん!」

 しかしそこには誰もいなかった。

 つい一瞬前まで、ミラーの中で震えていたはずの女はどこにもいなかった。シートには濡れた跡すらない。確かに、滴がシートに垂れる様を見たはずだが、その痕跡はどこにも見当たらない。

 女は忽然と消えてしまった。

 柏木の記憶に、恐怖の表情だけを焼き付けて。



 ……長くタクシーの運転手をしていれば、奇妙な話や愉快な話、恐ろしい話のひとつやふたつ、珍しくもない。

 雨の夜の奇妙な体験から数か月。柏木は相変わらず、タクシー運転手として働いている。

 あの夜のことは何度も人に話したが、誰にも信じてはもらえなかった。世の中そんなものだ。

 雨の降る、少し肌寒い夜。こんな日には思い出してしまう。

 あの時、彼女の言った通り車を停めずにいれば、何かが変わったのだろうか。


 「空車」の表示を光らせながら暗い夜道を走る彼は、道端で手を挙げている女の姿を見つけた。白っぽいジャケットに暗い色のズボン。傘をさしていない。

 車を停めることなくそのまま走り過ぎる。

 バックミラーの中で女の姿は遠ざかって行く。

 あの日自分が拾った女が何だったのか。彼女が何に怯えていたのか。自分に判断がどんな結果を招いたのか。彼には未だ分からない。

 ただひとつ確かなのは、二度も巻き込まれるのはまっぴらごめんということだ。

 佇む女の姿は雨の向こうに消えて見えなくなった。

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