第12話 うしろ

 人じゃないものが後ろにいる

 そう思ったら

 けっして振りむいちゃいけないよ

 けっして


 お前は、   ているからね



 そう私に教えたのは誰だっただろう。もう、声すらも思い出せない。

 小さな頃から、私は何か「人じゃないもの」の存在を感じることがあった。

 部屋の隅に。道路の脇に。そういう、くらい部分に潜むものなら平気だった。「それら」が、こちら側に手を伸ばしてくることはない。

 注意するべきは、背後にいるもの。

 死角からそっと近付いてくるもの。

 授業中に。部活中に。食事中に。お風呂に入っている時に。何かが私の後ろに忍び寄る。音もなく、気配だけがそこにあるのを確かに感じる。


『振りむいちゃいけないよ』


 高校生になった今でも、声も忘れてしまったその人の、忠告だけは守り続けている。

 触れてはいけない。見てはいけないのだ。一度交わったら、こちら側に戻れなくなってしまう。私はそんな危険を本能的に感じ取っていた。


 振り向かなければ大丈夫。そう思っていても、すぐ傍まで近付いてくる「何か」の気配に慣れることはない。人間なら吐息がかかるほどの間近にいるそれは、しばしば私を怯えさせた。

 特に、一人の時はいけない。

 黄昏時、昼から夜へと移り行く境目の時刻、静かな通学路を一人で歩く。いつもならもう少し人通りがあるのに、今日に限ってひと気のない、そんなとき。首筋がぞわりと粟立つ。

 ――いる。

 息を詰めて歩調を早める。せめて家に着けば誰かがいる。そうしたらこの悪寒にも耐えられる。

 早く、早く。

 半ば小走りに家路を急ぐ私の背に、

「結城!」

 と、聞き慣れた声が飛んできた。

 本宮先輩だ。同じ弓道部のひとつ上の先輩。女子の少ない部の中で何かと私を気にかけてくれている、たぶん私にとって一番仲のいい男のひと。

 家の方向が同じなので、たまに登下校を一緒することもあった。すぐに振り返って挨拶をしたいのに、今はそれができない。背中にほとんどぴったりと貼り付くような「何か」の気配が、私の行動を封じている。

 そうこうする間に、先輩の足音は近付いてきた。ぽん、と肩を叩かれる。

「おい、どうしたんだ? ぼーっとして」

 不思議なことに、肩を叩かれた途端、嫌な気配は急に薄れてしまった。先輩が私を助けてくれた。錯覚だと分かっていても、不安な気持ちは一転、笑顔で振り返る。


 先輩、

 と。

 呼ぶこともできず、開きかけた口は固まった。

 先輩は不思議そうな顔で私を見ていた。その先輩の、背後。私は見た。見てしまった。

 見てはいけなかった。

 見上げるほどに大きな、黄土色の物体が、大きく大きく、口を開いている。

 「それ」は、私が声を上げる前に、先輩が異変に気付く前に、大きく開けた口の中に、先輩の上半身を呑み込んだ。

 ばり、と

 ぼき、と

 音がする。

 先輩が砕ける音がする。

 私はただ見ていた。先輩が噛み砕かれていく様を見ていた。

 振り向いてはいけなかったのだ。振り向いてしまったから。だから。


 「それ」は、血の滴る大きな口を、三日月のように歪めて笑った。

 私は知っているはずだったんだ。「それ」が私に近付く理由を。

 私を、そちら側に連れて行くために、私を自分のものにするために、口を開けて待っている。そう教えられていたはずだった。どうして忘れていたんだろう。

 目が眩む。

 もう戻れない。



『お前は、好かれているからね』

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