第8話 ウミガメのスープ
小さな小さな小さな小舟にぼくたちはふたりきりだ。小舟の中心には古ぼけたマストがそびえ立ちしかしそこに帆は張られていない。
一面に広がる砂漠。
小舟の上にはぼくと彼女のふたり。
彼女は動かない、横たわったまま動かない風のない砂漠帆のない舟命のない彼女。
座り込んだぼくの足、つま先に触れる冷たい感触、スープが湧いていた。船底から湧き上がる薄紅色のスープはあっという間に小舟に満ち満ちる。彼女の体はスープに浸かってもう見えない。スープは溢れ出す。乾いた砂へと染み込みそれでも後から後から次から次へとぼくと彼女を呑み込んで砂漠を呑み込んで。
「どうして殺したんだ?」
どうして?
灰色の部屋は四角。
冷たい灰色の机、知らない男がぼくの顔を覗き込んでくる。
「お前が殺したんだろう」
ぼくが? ぼくが誰を?
灰色の部屋の灰色の屋根が溶け落ちて、中心から何かが落ちてくる。ぼくの目の前、机の上にぼとりと、濡れた音を立てて彼女の体が落ちてくる。
口を開く。
「ぼくが」
声はひどく乾いていた。喉がカラカラだ。そう、喉が渇いていたんだ。
「ぼくがきみを殺したのか」
違うわと彼女は言った。柔らかな波の音を聞きながら、ぼくはボートのオールをぐるり、ぐるりと回す。貧弱なぼくの両腕は重労働にすぐに悲鳴を上げるのだけど、風になびく彼女の髪にはすべての苦労を忘れさせる力があった。
違うわと彼女はもう一度言った。そういうつもりじゃなかったの。さよなら。
ぼくは手元の金づちを掴んで思いきり振り上げる。
「喉が渇いていたんです」
暗くて暗くて何も見えない。黒に支配された世界の中にいびつな輪郭が浮かび、それはぐにゃぐにゃ変形しながら僕に絡みついてくる。
「喉が渇いて仕方がなかった。だからぼくはスープを飲んだんです」
あふれる薄紅色のスープ。ぼくは彼女の肌に唇を押し当てる。ずず、と音を立てて啜る。滑らかな液体が僕の舌を喉を食道を胃袋を濡らす。
ぼくはスープを飲みました。
もう一度同じものを飲みたいのですが。
誰もそれを許してくれないのです。
砂漠のただ中で飲むスープはこの世のものとも思えないほどの美味でした。
この世界でこれだけがぼくの乾きを癒してくれる、そう確信したのです。
さようなら、ありがとう、世界のどこかで灰と化したきみへ。金づちは思ったよりも軽かったよ。
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