第3話 探し物

 妻は、洋子は変わってしまった。

 出会った頃の彼女は、芯のある女性だった。しっかりと自分の意見を持ち、それでいて常に他者への気遣いを忘れない、そんな人だった。そんな彼女に恋をして、私たちは結婚した。

 しかし、妻は変わってしまった。

 原因は、初めての子供を亡くしたことだ。流産だった。

 彼女のせいではない。誰のせいでもない。運が悪かったとしか言いようがない。彼女を責めるつもりは微塵もなかった。亡くした子供を弔い、二人でまた前を向いて歩いて行こうと心に決めた。

 しかし彼女は、私のように割り切ることができなかった。



 仕事を終え家に帰る。子供ができたと分かった時に、それまで住んでいたマンションから一軒家へと引っ越した。マイホームを建てるほどの蓄えはないので借家だが、いつかはこの家で、子供と一緒に賑やかな毎日を過ごそうと思っていたのだ。

「ただいま」

 ドアを開けると、清潔な玄関が私を出迎える。私も妻も清潔好きなので、家の中が散らかることはまずなかった。

 玄関の電気は点いていたが、ただいまの挨拶に返事はない。階段の上からも灯りが漏れているのが見えたので、二階に上がってみた。案の定、二階の廊下に妻はいた。掃除用具などを入れている収納の扉を開けてしゃがみ込み、中をごそごそと漁っている。

「洋子」

 間近で声をかけるとようやく彼女は私に気付いて顔を上げた。

「北斗。あれ、おかえりなさい、もうそんな時間?

 ごめんなさい、まだ夕ご飯できてないの」

「大丈夫、外で食べてきたから」

「そうなの、良かった」

 彼女はまた、収納の中を探りながら呼びかける。

「どこに行ったの、響、出てきなさい」

 響というのは私たちの息子の名前だ。

 生まれてくることのできなかった息子の名前だ。


 妻は変わってしまった。初めてその身に宿った子供を失い、彼女の心は壊れてしまった。

 彼女は日がな一日息子の姿を探している。まるで本当にこの家で息子と一緒に暮らしているかのように――本当にそうなのだろう、彼女の中では。

 話しかければ応えてくれるし、会話だって成り立つ。それでも以前の彼女とは明らかに違ってしまっている。ここのところ、私の帰りが遅くなっていることにもまるで気付いていない。

 今、私には、妻のほかに関係を持っている女性がいる。所謂不倫である。しかしいったい誰に私を責めることができるだろう。仕事を終えて家に帰れば、心の壊れてしまった妻が、いつまでも息子の名を呼びながら家中探し回っている、そんな毎日。癒しを得なければ私まで心を病んでしまいそうだった。

 それでも私はまだ妻への情を失ってはいなかった。それはもはや以前の純粋な愛情ではなく、同情に近いものになり果てていたが。情があるからこそ彼女の待つ家へ帰って来ていたのだ。

 しかしそんな日々も終わろうとしている。


「洋子、話がある」

「なあに?」

 腹を決めて、私は言った。

「別れたいんだ」

 妻は再度私を見た。驚きに大きく目を見開いている。

「えっ?」

「ほかに、好きな人ができたんだ……悪い」

「そんな……」

「……場所を変えよう。ゆっくり話したい」


 私たちは一階のリビングへと移動した。その間も彼女はきょろきょろと息子の姿を探していたが、私との話し合いには真面目に応じてくれた。

 私の浮気など夢にも思わなかった彼女にとって、あまりに突然の話だったことだろう。

 私とて、つい昨日まで、彼女と別れる日が来るとは思っていなかった。天秤が大きく傾いたのには理由がある。しかしそれを彼女に説明するわけにはいかない。ただ「気持ちが移ってしまった」と、それだけを理由に挙げた。

 私の決意が固いことは彼女にも伝わったようだ。その両目に諦めが浮かぶのが分かった。

 胸を軋ませる罪悪感の重さに、私は彼女にこうも言った。

「悪いのは俺だ。要望があればできる限り叶えるつもりはある」

 しばし考えた後、彼女は言う。

「じゃあ……せめて一度、その相手の人に会いたい。

 そうしたらもう諦めるから。諦めて、響と二人で生きていくから」

 涙を堪えて微笑む姿は健気だ。自分が壊れていることにも気付かない彼女はあまりに健気で、哀れだった。



 別れを切り出してから三日後、約束の対面は果たされた。

 どこかのお店でお食事でも、という取り合わせでもない。人目の少ない夜の公園で、私と恋人は、洋子と向かい合う。

 万が一、の可能性は考えていた。洋子はとても落ち着いて見えたが、万が一、凶行に及ばないとも限らない。その時はすぐに恋人を守らなければならない。万が一があってはならない。

 洋子はゆっくりとした足取りで私たちの方へと近付いてくる。手の届く距離まで来た時、沈黙に耐えかねたのか、恋人が「あの」と声を上げた。

 それには反応せず、洋子はその場に膝をつく。彼女の目は真っすぐに、低くなった目線と同じ高さを――夫を奪った女の腹を見ていた。

 そうして笑う。慈愛に満ちたその笑顔は、まさしく母親のそれだった。


「ここにいたのね、響」

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