第4話 企てた者たち
ラジオの音が聞こえなくなった。
スイッチを切ったのかと耳をすませた時、近くで明瞭な女性の声が聞こえた。
「『神罰は下った』――」
何だ? と雄志郎は思わず立ち上がり、声のする方向に振り向いた。
据え付け椅子の向こう側の通路に女が立っていた。
「
その声の主を探すため視線を泳がせた。
赤い絨毯が敷かれた一、二メートル先に、藍色の髪に合わせたかのように青いライダースーツのようなコスチュームを身にまとった姿で少女が立っていた。
身体の線が出やすいそれは、女の華奢なスタイルを強調させた。胸はなだらかな代わりに、お尻は大きい。年齢は同い年くらいか。だが、見た目以上の大人びいた雰囲気は雑誌専属モデルのような端麗さを思わせた。
その所作に全く隙が伺えない。
「そう。動かないことが、キミのためよ」
その女の口調は、とても冷たく、心臓の底を
雄志郎は返事が出来ないまま動けずにいると、彼女の背後から人が現れ、プリマドンナが舞台を滑るように側に立った。
その青い服の女は彼女と対照的に青髪が長く、洋装はお腹から胸下までが大胆に分かれたワンピースドレスだ。そしてボブ・ショートの彼女とは違い、膨よかな双丘がドレスを気品高く魅せていた。
どこに隠れていたのか、あまりに突然に音もなく現れた女に、雄志郎はまたも視線を奪われた。
肌は白く、身体が細い。スカート部分は大きなスリットが入っていて、そこからキャットガーターをつけた太腿を覗かせていた。その女はモデルというよりまさに踊り子のようだ。
だが人間ではないと断言はできた。なぜなら、その女は側へいった時つま先すら動かしていなかったのだ。
雄志郎は悟った、あれは
「ワタシの《ヘカーテ》は優しくないわよ。おとなしく言うことを聞きなさい」
《ヘカーテ》と呼ばれた青い女の
彼女たちには、雄志郎には理解できない凄みがある。
怖い先生より怖い。
高い学校のベランダで下を見るよりも恐い。
とにかく何様にも例えられない感覚に、雄志郎は冷や汗が止まらなかった。
その時、レイジとキチョウのことを思い出した。
この状況を打開出来るのはあの二人だけだ。
彼らに呼びかけた。
「レイジ、キチョウ姐さん! この女がヤバ……」
様子がおかしい。
身体をだらりとさせて目をつむっていた。
眠っているようには見えない。
気絶しているのか?
「無駄よ。すでに《ベルゼブブの魔風》で意識を奪ってあるわ。頼りの
その女が代わりに状況を説明した。
雄志郎はようやく口が開けた。
「一体何なんだよ、おまえ。『神罰』ってさっきのラジオと何か関係があるのか」
振り絞って出した言葉を女は一蹴した。
「……さあ。キミに教える必要があって?」
またあの眼だ。
見たことがない、氷よりも冷たい瞳。
視線を合わせたくないのに、目が勝手に吸い込まれてしまう。
寒い。
もう春も終わるというのに、寒気がする。
冷房の効き過ぎじゃない、心の芯から、精神から冷えが来ている。
と、震えている時、この場の空気とは全く違う、やわらかな声が聞こえてきた。
ブロンドの長い髪にカチューシャをつけ、顔立ちは日本人から程遠くどちらかと言うと欧州のような印象だ。年の頃はボブ・ショートの女と近い。白いスーツは隠し切れない巨乳でパツパツになっているが、ウエストは見事なまでにきゅっと締まっている。ヒップも大きく、女のフェロモンが滲み出ている。タイトスカートから伸びる脚はシルクのタイツで覆われ、赤いパンプスがそれらを彩る。
巨匠が命を削りだして造った彫刻でも、この女の美貌には敵わないと心から思えた。
そんな彼女が屈託のない笑顔をライダースーツの女に向けた。
「チェルシー。彼女を捕獲しましたわ」
見事なまでの日本語で伝えると、チェルシーと呼ばれた女も微笑みを返した。
「よくやったわ、キュリー。――んっ」
キュリーと呼んだ巨乳の白いスーツ姿の女を抱き寄せ、互いの舌を絡めて唇を重ねた。
雄志郎がその光景に呆気をとられるのも、別の姿で一気に冷めてしまった。彼女らの胸に中に挟まれた沢城を見たからだ。
「さ、沢城! なんで?」
「……」
「おい、沢城⁉」
沢城の腕がだらりと下がり、上半身がぐったりとして、キュリーの大きな胸に埋もれていた。それはレイジたちと同じ術が掛けられたからか。
神醒術なんて何も知らない素人に術をかけるなんてとんでもないだろっ、と思わず足を喫茶店の椅子にかけて身を乗り出そうとした。
それに素早く気がついたチェルシーは、まだ物足りない顔をするキュリーから唇を離し、唾液の糸を拭った。
「あら。この娘や店員がどうなってもいいのかしら」
チェルシーが目を後ろにやると、そこには《ヘカーテ》が店員たちを見張っていた。
全員拘束されてしまったのか、カウンターの影から店員たちの恐怖で
その
それが大きく揺れるたびに、店員たちから短い悲鳴がした。
どう見たってあの鞭はSM女王様の使うご褒美アイテムじゃない。
殺傷能力が間違いなくあると思わせるほどの殺気を放っていた。
二人は周りを見渡した後、キュリーが沢城の腕を肩に回しながら言った。
「彼女もそうなのか確かめましょう」
「そうね」
キュリーがチェルシーと一緒に通路奥へ歩いて行く。
チェルシーの視線が外れ、身体が若干動くのを感じた。
今しかない。
「沢城を離せ!」
喫茶店の固定椅子の背
あわよくばチェルシーを人質にして沢城を開放出来る。
キュリーの方なら捕まえてしまうのは簡単だ。だが、このチェルシーは躊躇なく店員を殺すだろう。
その隙も与えたくなかった。
これ以上深くなんて考えてられない。
とにかくチェルシーさえなんとかできれば。
「なっ」
チェルシーが雄志郎の声に反応して振り返ると同時に、雄志郎はチェルシーにがっしりと抱きついた。
普通の女なら悲鳴を上げて突き放そうとするだろうが、チェルシーは全く違う反応をした。
肘を打ち、拳で殴り、脚で蹴りだした。
重く鋭い打撃による激しい抵抗に雄志郎は手を離しそうになってしまうが、今離せばただ殺されるに違いない。
こうなったら、と雄志郎はチェルシーのお尻を触った。
「きゃ⁉」
チェルシーに女子高校生のような悲鳴があがった。
しめた、と股間の秘部も弄る。
「あ⁉。このHENTAI……調子に乗るな!」
チェルシーは素早く雄志郎の両腕を取り上げ、大きく振りかぶった右足で彼の顎を蹴り飛ばした。
雄志郎の身体は見事なまでに打ち上げられ、天井を舐めるかのようにして数メートル吹き飛んで行く。
その先の客椅子に落ちてしまった。
そこからムクリと雄志郎ではない頭が上がった。
「痛てて……。なんだいったい、何がどうなって」
「しまった」
チェルシーが舌打ちをした。
レイジが目を覚ましたのだ。
頭を抑えながら周りをキョロキョロ見ている。
チェルシーの顔から冷たさが消え、眉間にしわがよった。
「キミ、わざとその
「へへ。奇襲には奇襲って奴さ」
鼻血が垂れ、身体のあちこちがずきずき痛むが、余裕の笑みで見返してやった。
「雄志郎、どいてくれ。重い」
レイジから身体をどかすと、雄志郎はレイジに今の状況を説明しようとした。
構わずチェルシーは一歩踏み出し、《ヘカーテ》を仕向けた。
「チェルシー、待って」
キュリーが大声で止め、チェルシーの左手を大きなオッパイに押し当てた。
「キュリー、離して」
「待って。約束したでしょ。あなた様がもしも冷静さを失ったらこうしてあげるって」
「……キュリー。――ふぅ」
チェルシーが大きく深呼吸をした。
そしてキュリーの髪を撫でていった。
「ありがとう、キュリー。引き上げましょう」
「え? いいのよ。あなた様が戦いたいなら。わたくしたち二人なら間違いなく勝てるでしょう」
「いいえ。任務が優先よ」
すると《ヘカーテ》が攻撃態勢をすぐさま解いた。
身構えていた雄志郎は拍子抜けしてしまう。
その雄志郎の視界を《ヘカーテ》が遮った。
その時、またディープキスをしていたように見えたがよく見えなかった。
「あ、沢城!」
あんな狂気じみた女達の百合イベントよりも、沢城の奪還が重要だ。
雄志郎は慌てて追いかけようとしたが、《ヘカーテ》に遮られてしまう。
神醒術が使えなければ、
雄志郎はなんとか《ヘカーテ》をかわそうとするが、ふわりと、またはひょいっととうせんぼしてくる。
「ああー、もう!」
二人が沢城を抱え、駐車場の車に乗り込んでいくのがちらっと見えた。
「待てぇ!」
車の発進音がすると、《ヘカーテ》は更に雄志郎の近くに寄った。
「これじゃ、あいつらの行き先が分からないじゃないか」
不意に、
その時《ヘカーテ》が、侮蔑してほくそ笑みながら消えたように見えた。
もう既に、沢城を連れ去った車は見る影も無かった。
「チクショウ!」
雄志郎が項垂れ、膝を付いた。
「雄志郎……」
レイジが後ろから声をかけた。
「面目ねぇ。どうやら俺は敵の術で眠らされたみてぇだな」
ばつが悪そうに言うレイジに、雄志郎は何も返事をすることが出来なかった。
レイジは続けた。
「とにかく、まずはキチョウが回復するまで待とうぜ」
――――
キチョウが目を覚ましたのは、それから陽が傾きだした頃だった。
雄志郎はキチョウも乱暴に起こそうとしたが、レイジから止められた。
《ベルゼブブの魔風》は禁呪とされている上に、深く掛かると無理に目を覚ましてもしばらく身体の自由が効かなくなるとのことだった。
いわゆる『昏眠』状態だという。
レイジも雄志郎の作戦で叩き起こされた時、ほとんど動くことが出来なかったらしい。
雄志郎は沢城を探そうと何度もレイジを説得したが、レイジはよせと頑として首を縦に振らなかった。
「俺達はかなり消耗している。仮に探し出せてもどちらかが死ぬことになる。沢城の命もお前の命も保証できない」
説得から三◯分後、雄志郎はとうとう諦めたのだ。
キチョウは、雄志郎や店員たちから事の顛末を聞くと、キセルを懐から取り出して吹かした。
煙は全く出ないが、タバコのような香りが漂う。
「――ふぅ。そうだったのかい。改めて謝るよ。ごめんなさい」
キセルを置き、頭を下げるキチョウに雄志郎は首を振った。
「いいんです。仕方ありません。――俺はあの女がとても怖かったんです。俺だって同罪です」
「そのことだけどね。私に思うところがある。ちょっと聴いてくれるかい」
キセルの屑を携帯灰皿に捨てた後、それらを仕舞って扇子を取り出した。
『さくらともみじ』のもみじ側を開いて話を続けた。
「チェルシー、キュリーと名前を呼び合ってたようだけど。
おそらくそれらは偽名だね。チェルシーは私も聴いたことがある名前でね、とある組織の有名なスパイだよ。
キュリーは聴いたことはないけれど、おみゃさんから聴いた特徴からクレマだろうね。
二人は――――」
チェルシー・ベーグル。
凄腕のスパイとしてその道の顧客からは、名の知れたエージェントだ。受けた依頼のためなら人の命すら、あっさりと握り潰せる。本名を知るものはなく、この名前は売名のためによく使うコードネームらしい。
クレマ・サンジェルマン。
とある人物の秘書として動き、スパイ活動も行う女。その人物の名前だけはどうしてもわからないらしいが、噂の噂によると超が付くほど凄腕の天才神醒術士らしい。
「――――以上が、私が某筋から聴いた情報だよ」
「キチョウ姐さん、『某筋』って何ですか? まさか危ない人たちなんじゃ」
「ふふふ。まあ、すじはすじだから確かだよ」
と、折りたただ扇子を唇で僅かに滑らせた。
なんだか妙に含みのある言い回しだが、ツッコんだら負けのような気がした雄志郎は、何も言わずに礼だけ伝えることにした。
レイジはため息を吐きながら頬杖を付いた。
「面倒くせぇことになったな。
「そう、折り紙つきのね。レイジが叩き起こされた時、すぐに撤退した引き際は侮れないね」
キチョウの言葉に雄志郎は首を傾げた。
「ユウ坊や。この子はとある武勇伝を持っててね。八幡学園都市の――」
「おっと。その話は
「分かったよ、言わないでおくよ。まあ要するに、レイジを警戒したってことさ」
悪戯っぽく言った後、扇子を広げてくすりと笑った。
レイジは、舌打ちをしてそっぽを向いた。
一体どんなことがあったのか、聞けそうにはないようだ。
「お客様、ご夕食はどうされますか」
ウェイトレスが声をかけてきた。
窓を見ると、もう陽が落ちて暗くなっていた。
雄志郎はスマホの時計を見ると、一七時を過ぎていた。
「あ、もうこんな時間。帰らないと」
「駄目だよ。おみゃさん、狙われているのを忘れたのかい」
「でも、親が」
「友達の家に泊まるとか、適当なことを言っておきなさい。なんだったら、その家のお姉さんを演じてやるよ。夕飯も持つよ」
「そんな悪いですよ。それに、あの事件の後なのに許してくれるかな」
雄志郎が頭を抱えていると、ウェイトレスが分け入ってきた。
「あの、すみません。その事件のことで妙なことが起きているんです」
「どうしたんですか」
「実は、お昼に散々やっていたそのニュースが急に報道されなくなって」
「え? あんな大事件なのにっ。人がたくさん殺されたんですよ!」
「さっき休憩室で聴いてたんですけど、その……、誤報だったようです」
「そんな、バカな!」
雄志郎は慌ててスマホを弄り、ニュースサイトにアクセスする。
どこにも記事が載っていない。
下へ下へスクロールすると、小さく誤報と謝罪のバナーを見つけた。
すぐに店内のラジオを付けてくれるようにお願いした。
どこにチューニングを合わせても、事件に付いて全く触れていない。
あの公共放送でさえも、午後五時のニュースは全く別の話題だった。
ただただ、唖然とした。
あんな残虐な事件、
大騒ぎになってもいいはずなのに。
一体どうなっているんだと首を捻った時、窓ガラスの向こうに見知った同級生が歩いているのを見た。
すぐに店を出て、その女子を呼び止める。
「おい、佐伯」
「ん? あら衿崎。学校サボってこんなところでお茶?」
「なあ、お前さ午前中、学校のグラウンドで凄い事件が起きてたの見てたよな」
「何それ」
「おいおい、あんなに一年生が殺されたじゃないか」
「……? ねえ、美樹ちゃん」
「はい、先輩」
佐伯が呼びかけた相手は、さっき一緒に歩いていた一年生だ。すこし離れていたのを呼びかけた。
美樹と呼ばれた後輩は、ツインテールを弾ませながら元気に駆け寄ってきた。
「なんでしょうか」
「あなた、午前の授業、グラウンドで体育だったよね。何かあった?」
すると美樹は首大きく横に振った。
「いいえ。なにも」
「そうよね。ほら、そんな不謹慎なことばっかり言っていると、エロザキ以外のアダ名がつけられるわよ」
「あ、先輩。この人があの」
「そうよ。気をつけてよ、こいつね――」
雄志郎の頭が急にグルグル回ってしまい、そのままヨロヨロと後ずさりして、喫茶店の窓ガラスにもたれかかってしまった。
「ちょっと、衿崎。どうしたの? 本当に具合悪くて早退してたの?」
心配した佐伯が駆け寄ってくるが、横からレイジが割って入ってきた。
「悪ぃな。俺、こいつの知り合いでさ。後は見ておくから、もういいぜ」
「は、はあ……」
一瞬、佐伯とその後輩が頬を赤らめた気がして、妙に釈然としない気分になったのは、その後のことだ。
今はとにかく世界がグシャグシャに混乱している気分だった。
「おい、雄志郎。ほら、しっかりしろ。とりあえず店に戻ろう」
レイジに肩を貸してもらいながら、雄志郎は元の席に座った。
そしてテーブルに顔をうつ伏せた。
「どうなっているんだよ。殺されたはずの女子が生きてて、事件がなかった事になって。……俺の頭、とうとうイカれちまったのかな」
その時、キチョウが雄志郎の頭を撫でた。
「おみゃさんの頭はどこもおかしくなってないよ。私だってアレには腹を立ててんだ。幻なんかじゃけっしてないよ」
「じゃあ、キチョウ姐さん。さっきのこと説明して下さいよ」
「私にも分からないよ。残念だけど、そのすじのお客とはあってないしね。そうだ、レイジの姉さんに調べてもらおうか」
レイジが唸っている。
雄志郎にはテーブルしか見えていないので、どんな様子なのか分からない。
「分かった。姉貴に聴いておく」
キチョウが雄志郎を背凭れに起こした。
「ほら、そんな格好してたら顔に跡がつくよ。あらまぁ、言わんこっちゃない」
そう
雄志郎はキチョウの目を見た。
「チェルシーとクレマの背後には、かなりあぶない組織がいるようだね。雄志郎、今夜は絶対に帰っちゃ駄目だよ」
鋭く、そして暖かなキチョウの瞳に、雄志郎は黙って頷くしかなかった。
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