第3章 顔を隠してボディ隠さず
「よく似ているなんてものじゃありませんよ。あれは間違いなく
翌朝、事件現場である〈シナダプロ〉を訪れた
「私には分かります。私は仕事柄、何百人ものモデルや芸能人を見てきましたから」
理真と私、そして、迎えに来てそのまま捜査に同行してくれることになった、群馬県警の
近藤は、年の頃は四十前後。芸能プロダクションの勤め人らしい派手な色合いのジャケットを羽織っている。細面にきれいな七三分けのその風貌は、時と場合によってはインテリ風業界人といった印象を与えてもおかしくないが、今のそれは、モデル好きの派手な若作りのおっさん、というふうにしか捉えられなかった。私の勝手な感想であるが。
シナダプロの応接室に通された私たちは、専務の近藤に話を聞き、防犯カメラに写った人物を理真が、「三枝さんによく似た――」と形容した途端、近藤は捲し立てたのだった。
「近藤さんは、三枝さんを直接ご覧になったことは――」
「ありません。でも分かるんです!」
理真の言葉は、またしても最後まで言いきらないうちに近藤に掻き消されてしまった。
エキサイトしすぎてしまったと思ったのか、近藤は、失礼、と口にして、
「三枝恵美は、完璧なモデルでした。顔、スタイル、声、あれほど高レベルのものを同時に持ち合わせたモデル、いや、女性はいないでしょう。いったい、どうしてこんなことに……」
近藤の口ぶりは、自社の社長が殺されてしまったことよりも、完璧なモデルの行方が分からないことのほうを気に病んでいるように聞こえる。今後の売り出しでの皮算用をしていたのだろうか。
「警察の質問と重複すると思いますが、三枝さんが身を潜めそうなところに心当たりはありませんか?」
理真のその質問には、ひと言、「ありません」と不機嫌そうな顔でぶっきらぼうに答えただけだった。
そう、行方が分からないどころではない。将来稼ぎ頭になっていたかもしれないモデルには、殺人容疑が掛けられているのだ。
「だいたい、社長も社長ですよ。三枝のような逸材をどうしてあんなふうに扱うんだか。露出を控えて神秘的なイメージを作ったり、飢餓感を煽るやり方は確かにありますけれど、常軌を逸していますよ、あそこまでいくと」
近藤はテーブルに置いていある湯飲みを掴んだが、中身をすでに飲み干していたことに気が付いたのだろう、部屋の隅の台に載せてある内線電話まで歩き受話器を取ると、お茶のお代わりを持ってくるよう告げた。席に戻った近藤は、
「とにかく、一刻も早く三枝を見つけて下さい。チャンスなんですよ――」
そこまで言って近藤は口を噤んだ。理真が何も口にしないからか、坪内刑事が、
「もちろん、捜索には全力を尽くしております。そのためにも、皆さんの御協力が必要なんです」
「協力しようにも、我々は何も分からないんですよ。三枝に関しては」
近藤は、がくり、と項垂れた。
「失礼します」
沈黙の応接室に、ノックの音を鳴らしてからお盆を抱えた女性が入ってきて、私たちの湯飲みを交換した。
近藤が、「ありがとう、
「それは会社の制服なんですか?」
理真が荒木に訊いたが、荒木は、それが自分に対する質問だとは分からなかったようだった。空の湯飲みを載せ終えたお盆を持ち上げて、ドアに向かいかけてからようやく、「えっ?」と理真を向いた。
「ああ、これはね」
と戸惑った様子の荒木に代わって近藤が、
「うちは去年から制服をやめて、各々が好きな服で勤務することにしたんだけれど、荒木くんは未だに制服を着用していてね。こんな商売なんだから、もっとお洒落な格好で働いて欲しいと私は思ってるんだけれど」
近藤が喋る間、荒木は、「ああ、はい」と曖昧な返事をして、こくこくと頷くだけだった。背は高い方ではなく、というか、はっきり言って低い。百六十に満たないだろう。服、眼鏡、事務服と相まって、とても地味な印象を与える。確かに、芸能プロダクションに勤めている女性には見えない。
「も、もういいですか。失礼しました」
荒木が逃げるように応接室を出て行くと、理真は、
「近藤さん、制服を廃止したというのは、いつの話ですか?」
「そうですね、確か、去年の春頃じゃなかったかな? そうそう、夏制服の話をしているときに、社長が、もう制服はやめよう、って言い出したのを憶えています。芸能プロなんて商売してるんだから、働いてる人もお洒落に働こう、なんて言って。でも、女性社員からは反対意見が多くて。それで、今まで通り制服を着たい人はそれでも構わない、ってことに落ち着いたんです」
「そうですね。無理もないですよ」
理真が同意すると、坪内刑事が、
「どうしてです? 好きな服で働けるなんて、女性にとっては嬉しいことなんじゃないですか? あんな地味な制服を着るよりも」
「私服オーケー、となったら、着ていく服のローテーションを考えるのが面倒じゃないですか。同じ服をあまり続けて着ていけないですし。制服のほうが楽ですよ」
「ああ! そういうことですか」
理真の答えに坪内刑事は納得したようだ。
これには私も完全同意だ。
あの子、一昨日と同じ服着てきてるわよ。
ねえ、ちょっと、あの子のコーディネイト、あれはないんじゃない?
あのパンツ、先週スーパーの特売で見たやつよ。
給湯室でのOLたちの会話が目に浮かぶ。
ああやだ。会社勤めをしていた頃の嫌な記憶が甦った。
お代わりのお茶を飲み終えると、私たちは
フロアを出る際に、私は、ちら、とスナダプロ社内の様子を目に止めた。スタッフの半数は女性だった。その中でも私服を着ているのは、四割に満たないだろうか。やはり制服のほうが気を遣わなくて楽なのだ。
余計なことをして遅れたかなと思い、急ぎ足で出入り口に向かおうとしたが、私の前を歩いていた理真も、私と同じように立ち止まって社内の様子に視線を送っていた。
「理真?」
「ん? あ、ああ」
私が声を掛けると、理真も出入り口に急ぐ。ドアの向こうでは、すでにフロアを出た坪内刑事がドアを押さえて待ってくれていた。
坪内刑事、歳は三十に届くかどうかといったところか。若いのにしっかりした好青年だ。
「どうですか、
「うーん、特にないですね」
ひと通り現場を見た理真は、首尾を訊いてきた坪内刑事に対して簡単に答えた。
巻田社長が殺された現場は、発生から日にちも経っているため、すでに事件の痕跡はほとんど見つけられない。血で汚れた床も新品に張り替えたという。壁紙も真新しい。血の飛沫が飛んだためだろう。
「すみませんね安堂さん。探偵さんが捜査に入ると分かっていれば、まだ現状を保つようにしておいたのですが」
坪内刑事は詫びたが、理真は、
「いえ、現在の科学捜査の力を持ってすれば、現場で探偵が鑑識以上の成果を得られるということはないでしょう。あとで鑑識の結果を見せていただければ十分です。それよりも、ここに来た目的はですね」
そう言うと、現場となった部屋の出入り口まで歩き、
「ここからの逃走経路を確認したいんです」
現場の部屋は三階。ここから三枝らしき女性が映った防犯カメラのある正面玄関まで実際に歩いて行ってみようということか。
理真、私、坪内刑事は、部屋を出てすぐにある階段を降りる。エレベーターを使うには、一度折れる長い廊下を突っ切らねばならず、一刻も現場を離れたい犯人ならば、階段を駆け下りるほうを選ぶだろう。
階段を二階分降りて一階の廊下に立った。ここまで、誰とも鉢合わせしなかった。二階程度の上り下りであっても階段を使う人は
ここまで来たら、あとは三階と同じ構造の一度折れる廊下を抜ければ正面玄関だ。私たちは理真を先頭に廊下を進む。廊下の曲がり角まで来たところで足を止めた理真が、
「ストップ。ねえ、ここ」
と曲がり角の壁に穿たれた四角い枠を指さした。いや、それは壁に刻まれた枠線ではない、ドアだった。よく見れば小さいがノブが付いているのが分かる。
「非常口、ですね」
坪内刑事が扉の上を見上げた。そこには、非常口を表すおなじみの緑色のサインが光っていた。非常口の扉は壁と同じ色をしており窓も付いていない。それを示す緑色の非常口灯がなければ、そこに扉があるとは一見して分からないかもしれない。実際、私は理真に言われるまで扉の枠を壁に刻まれた線だとばかり思い込んでしまっていた。
理真がノブに手をかけて扉を開けると、果たしてそこはすぐに屋外だった。ビルの壁に挟まれた狭いコンクリート打ちの路面が伸びている。理真はそのまま屋内に振り向く。廊下の遙か先には、正面玄関の両開きのガラス扉が見える。
「どうしたの、理真?」
私は訊いた。理真はドアを空けたまま半身を屋内に、もう半身を外に出した、敷居を跨ぐ形で立ち尽くしている。
「ねえ、どうしてここから逃げなかったの?」
理真の言葉の意味が分かった。犯人が現場から階段を使って逃走するなら、この非常口を使わない手はない。
理真は外に出てコンクリート打ちの路面を歩いて行く。私たちもあとに続くと、狭い道は五メートルも行かないうちに公道に突き当たった。そこはビルに挟まれた狭い裏路地で、左右を見回しても通行人はひとりもいない。
理真は私と同じように辺りを見回してから来た道を引き返し、非常口から屋内に戻った。私たちは改めて正面玄関へと向かう。十秒程度かけて廊下を歩き正面玄関を出ると、先ほどの裏路地とは打って変わり、広く明るい歩道が私たちを迎えた。往来はひっきりなしに人々が行き交い、片側三車線もある車道も車の洪水と化している。
廊下の角からここへ出るまでも、ビルに出入りする、もしくはエレベーター待ちをする人たち数人とすれ違っていた。
私たちは屋内に戻ると、
理真はカメラの真下に立ち、正面玄関と非常口、それぞれを何度か見渡して、
「どうしてわざわざ正面玄関から逃走したのか。この通り、人通りも多いし、防犯カメラが設置されていると一発で分かるのに。非常口を使わなかったのは、どうして? 人目を忍んでビルから出られるばかりか逃走経路の途中にある。殺人を犯して一刻も立ち去りたいなら絶対にあっちよ」
と非常口のドアを指さした。
確かにそうだ。私は映像を思い出す。三枝恵美、と思われている女性がワンピース姿でコートを提げて正面玄関に向かって歩いている。後ろ姿のため顔は確認出来ないが。顔が確認出来ないのには、もうひとつ理由があって……
「あ、理真。帽子。大きな帽子を被っていたから、天井に付いているカメラは死角になってしまって気が付かなかったんじゃない? 非常口だってそうだよ。壁と同じ色をしてるから、一見してそこに扉があるとは分からなかった。ここでも大きな帽子が邪魔して、上にある非常口灯が目に入らなかったんじゃ?」
「それはありえますね」
私の推理に同意してくれたのは坪内刑事だ。当の理真は、考え込むような顔を変えないまま、
「じゃあ、屋内でわざわざ帽子を被っていたのは、どうして?」
「それは、ズバリですよ。顔を隠すためです」
坪内刑事が答えた。確かに。これで話は通るのではないか?
しかし、理真はまだ表情を変えないまま、
「犯人、三枝恵美は、自社社長巻田を殺す。現場を離れる際に顔を見られないように帽子を被って逃走。大きな帽子の鍔のせいで、絶好の逃走経路である非常口を見逃し、正面玄関からの脱出を余儀なくされるが、首尾よく誰とも会わないままビルからの逃走に成功。でも、やはり帽子のせいで監視カメラの存在にも気付かなかったため、後ろ姿なれど、その姿を撮影されてしまった。と」
理真の話を坪内刑事は、うんうん、と頷きながら聞いていた。
「でもですね」
理真は、納得した様子の坪内刑事とは対照的に考え込んだ表情のまま、
「結局、カメラに写った人物は三枝恵美なのではないか、と疑われてしまっていますよね。それはなぜか?」
「パーフェクトボディのせいで」
私が答えると、理真は頷いた。坪内刑事は、
「痛い誤算だったんでしょうね。三枝にしてみれば。せっかく顔をばっちり隠したのに、ノースリーブのワンピースなんて着て体の線を露わにしていたばかりに、近藤専務に自分だと看破されてしまった。近藤でなくともアイドル好きなら、その後ろ姿だけで三枝恵美だと知られてしまっていたかもしれません」
「そこですよ」
理真は坪内刑事を向いて、
「どうして顔は隠したのに、体は露出していたんでしょうか? 別に裸で歩いていたわけではないですけれど、三枝恵美といえば、完璧なボディの持ち主と巷で話題になっていますよね。本人もそれは十分自覚していたはず。近藤専務のように、その筋のマニアの目に触れれば、体だけで自分だと悟られてしまうという考えはなかったんでしょうか。カメラに映ってしまったのが不注意からだとしても、帽子を被っていたのは、現場からの逃走経路途中で誰かに出会うことへの用心のためですよね。あんな体の線が出る服を着ていたなら、なおさらです。頭隠して体隠さず、ですよ」
「ワンピース姿を隠すための上着を持ち合わせていなかったんじゃ――あ! 三枝はコートを提げていましたね!」
坪内刑事は額に手をやった。理真も頷いて、
「そうです。コートを羽織ればいい話です。それで完璧に顔も体も覆い隠すことが出来ます」
確かにそうだ。映像の三枝は左手にブラウンのコートを提げていた。
「コートを羽織れない、何か理由があったんじゃ――」
私はそう口にしてから、あっ、と思い至った。
「あ! もしかしたら、返り血!」
「それです、
坪内刑事は興奮した様子で、
「三枝は巻田殺害時にそのコートを着ていたんですよ。そのせいでコートは返り血でべっとり。でも、そのおかげで、下に着ていたワンピースまでは汚れなかった。返り血を浴びたコートを着て歩くわけにはいかないですからね。三枝はコートを折り、血の付いた面を隠して手に提げて逃走するしかなかった」
「待って下さい。三枝はビルから出ると、そのコートを着てタクシーに乗っていますよ」
「……ああ! そう言われると、そんな証言がありましたね!」
私も思い出した。このビルの前で三枝らしき人物を乗せたタクシーの運転手が、乗客の女性はブラウンのコートを着ていたと証言している。
「返り血が付いたコートなんて着ていれば、一発で分かってしまいます」
理真の言葉に坪内刑事は、
「血が目立たないような濃いブラウンだったんじゃないですか? 一見して血が付いているとは分からないような」
「いえ、映像に映っていたコートは、かなり明るいブラウンでした。血が付いていて誤魔化せるような色ではなかったです」
理真が言うと、坪内刑事は黙ってしまったが、黙ったのは理真も同じだった。当然、私も。
羽織らなかったコートの謎。
ただ単に、三枝が自分のボディを目撃されることに無頓着だっただけなのか? それとも?
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