第2章 幻の女
「秘密主義も、そこまで徹底すると何だか怖いね」
私と
秘密主義。そう、三枝恵美は、徹底した秘密のベールに包まれた謎のアイドルなのだ。
当然、その存在を疑問視する声もあった。
「三枝恵美という人物は実在しておらず、全てコンピュータグラフィックスで描かれた架空の存在なのではないか?」というものだ。
コンピューターグラフィックスの進歩は目覚ましく、今や、人間の声までコンピューターで作り出すことが出来る時代だ。
三枝恵美は、シナダプロ社長
だが、コマーシャル映像やスチール写真を何人ものその手の筋の人間が解析したが、肌の質感、動き、間違いなく実在する人間のものであるという結論に至った。
マスクとサングラスで顔を隠した三枝恵美らしき女性と巻田社長が、一緒に歩いている姿を目撃されたこともあった。
声にしてもそうだった。これには決定的なものがあり、一度だけ三枝恵美がラジオに生出演したことがある。当然というか、スタジオに現れたわけではなく、電話での出演だったが、コマーシャルや歌で聞いた、誰しもが聞き惚れるその美声で、三枝は番組司会のDJやアナウンサーと、リアルタイムで十分以上も会話のやりとりをしたのだった。
「幻のアイドル、って感じね」理真は、お代わりに持ってきたコーヒーをすすって、「で、その三枝恵美が、社長の巻田さんを殺した重要参考人っていうことなのね?」
浮世離れしたアイドル談話から血なまぐさい殺人事件へ、会話の内容は帰ってきた。
丸柴刑事は空になったカップを両手で包むように持ちながら、
「そういうこと。さっきも言ったように、被害者の死亡推定時刻は午前十一時半だけど、実際にナイフで刺されたのは、それよりも前と見られているわ。月曜日の午前中なんて、会社では特に忙しい時間帯だから、社員や関係者がひっきりなしにビルを出入りしていて、アリバイのあるなしを確実に証言、証明できる人物はいないのよ」
「そこへもって、三枝恵美らしき人物が、防犯カメラに映っていた」
理真の言葉に、丸柴刑事は頷いて、
「しかも、被害者である巻田の死亡推定時刻の五分後にね」
「防犯カメラ以外に、肉眼で三枝恵美を目撃した人はいないの?」
「いるわ。タクシーに乗ってるところをね」
「タクシー?」
「そうなの。一般市民のSNSで、『三枝恵美がタクシーに乗ってるのを見た』という呟きがあったわ。時間は午前十一時四十五分。場所は事件現場のビルから数百メートルほど離れた路上で」
「現場から逃げる途中を目撃されたっていうことですね?」
私は言ったが、理真は何か考え込んだような顔をしている。
「
「うーん、そう言われてみれば……」
「ああ、それはね」
と唸っている私の代わりに丸柴刑事が、
「三枝恵美は、タクシー後部座席歩道側の窓を開けて、外に顔を向けていたんですって。それを歩道から目撃した市民が、すぐに呟いたってわけ」
「なるほど」
私は納得した。
「そのタクシーの運転手は?」
理真の質問に丸柴刑事は、
「見つけたわ。確かに、その日の午前十一時四十分に、当該ビルの前で女性客を乗せていたわ。でも、客の人相については分からないと。というのも、その女性客は、帽子を被ってサングラスにマスクで顔をほぼ完全防護していたそうよ」
「完全防護。でも、最低一度は、素顔を窓から外に晒しているわよね」
「そう、そのことも訊いたけれど、運転に集中していたから分からないって」
「服装は?」
「ブラウンのコートを着ていたと証言しているわ。屋外に出たから、提げていたコートを羽織ったんでしょうね。この季節、あのワンピース姿で外には出られないわ」
今は二月下旬。ここ新潟だけでなく、関東の高崎でもまだまだ春の訪れは遠い。
私はそう思いながら窓の外に目を向けた。コートを羽織った背広姿の男性が、吹き付けた風にコートの前を合わせていた。理真は続けて、
「その三枝恵美、と思われている人物は、どこで降りたの?」
「高崎駅で。駅前ロータリーで下ろすと、駅構内に向かって歩いて行ったそうよ。その後の足取りはまったく不明」
「連絡も取れない?」
「そう。そもそも、三枝恵美と連絡が可能なのは、死んだ巻田社長だけだったらしいの。その社長が死んだ今となっては、社内外の誰ひとりとして三枝とコンタクトを取る
「幻の女」
理真が呟いた。
「
「経理に訊いたけど、給料は特に出ていなかったそうよ。三枝の仕事のギャラは、すべて巻田社長の口座に振り込まれることになっていたそうよ。保険については加入していない。アルバイトみたいな扱いだったそうだから」
「会社へ住民票の提出とかは?」
「それもなし。とにかく、三枝恵美に関するすべてのことは巻田社長が一括で管理していて、誰も触れられていなかったのよ」
「ますます、幻の女か。何者なの、三枝恵美って? 当然芸名だよね」
「うん、多分ね。まあ、社員や関係者たちの間では憶測が囁かれていたわ」
「社長の愛人」
「ご名答。まあ、愛人というか、恋人? 巻田社長は未婚だったから。巻田社長の所持物件に、それらしいアパートかマンションの部屋がないか捜索したけれど、何も出てこなかったわ。巻田は高崎市内のマンションにひとり暮らし。三枝と一緒に暮らしていたのかは、分からないわ」
「部屋に捜索は?」
「当然入ったわよ。でも、典型的な独身男性のひとり暮らしって感じで、女性の同居を思わせるものは一切なかったと。でも、ちょっと荒らされてたそうよ」
「荒らされてた? 家捜しされてたってこと?」
「うん、そんなに滅茶滅茶にされてはいなかったそうだけど、机の引き出しや本棚が荒れていたと。あと、パソコンがなかった」
「盗まれた?」
「そう考えて間違いないわね。巻田は、ノートやモバイル型じゃなく、デスクトップ型のパソコンを使っていたの。その本体がなくなっている。パソコン用の電源コードがコンセントに、LANケーブルがコネクタに刺さったままで、ディスプレイやマウスも残されていたそうだから。パソコン本体だけを持ち去ったんでしょうね」
「誰が? まあ、決まってるわよね、犯人以外にあり得ない」
「うん。捜査本部も、三枝恵美が犯行後、巻田の部屋に寄ってパソコンを奪って逃げたと見ているわ。でね、少しおかしなことがあって、殺された巻田の死体からは、部屋の鍵や車の鍵なんかをまとめて束ねていたキーケースがなくなっていたの」
「キーケースが。ということは?」
「うん、犯人、三枝が巻田を殺してキーケースを奪い、巻田のマンションに侵入、パソコンを持ち去った、と」
「その話のどこがおかしいんですか?」
私が訊くと、理真が、
「さっき言ったように、三枝が巻田社長の愛人だったのなら、マンションの鍵くらい持っているはずでしょ。わざわざ死体から盗む必要はない」
「ああ、そうか」
私が納得すると、理真は続けて丸柴刑事に、
「その、三枝の他に容疑者は?」
「そっちも洗ってるけれど、これといってなし。社員、友人らの話でも、特に人から恨みを買うような人間ではなかったと。まあ、お決まりの反応だけどね」
「でも、実際に殺されている」
「そう。と言うわけで、理真」
丸柴刑事は伝票を取って、
「今日の夕方にでも、さっそく高崎に向かってよ」
「え? 今日?」
ドリンクバーのお代わりに立とうとしていた理真が振り向いた。
「うん。だって、暇なんでしょ? それとも、原稿の締切が近いとか?」
「……ううん。暇だけど」
「由宇ちゃんは?」
私は丸柴刑事に向けて人差し指と親指で輪っかを作り、了解の旨を表した。理真が事件捜査に乗り出すときには、ほとんど大抵、私もワトソンとして付いていく。
「じゃあ、決まりね。私はもう行くけど、二人はゆっくりしていってね。後で連絡入れる。じゃあね」
丸柴刑事は、伝票を摘んだ手を振ってレジに向かった。ゴチになります。
理真は、改めて空のカップを手にしてドリンクバーに歩いて行った。食器はすでに下げられ、テーブルの上には私のカップと、丸柴刑事が置いていった事件資料だけが残された。
私はカップのコーヒーを飲み干すと、ぱらぱらと資料をめくる。
一枚の写真が目に止まった。丸柴刑事が話していた、防犯カメラの映像を起こしたものだ。
画像は廊下を俯瞰している。カメラは天井に設置されているのだろう。カメラ側に背中を見せて歩いている人物の背中が写っている。白地に赤と緑の柄が入った派手目なワンピースを着ており、大股に足を踏み出して歩いている。右手には小さなバッグ、左手にはブラウンのコートを提げている。ほぼ完全な後ろ姿のため、首から上は後頭部、セミロングの髪の毛と被っている白いハットしか見えない。
「この人ひとりしか写ってないね」
後ろから声を掛けられた。振り向くと、理真が湯気の立つカップを手にして、私の頭越しに同じ写真を眺めていた。
「そうだね」
私は再び写真に視線を戻した。確かに理真の言うとおり、写真に写っているのはこの、三枝恵美と目されている人物だけだ。理真は、丸柴刑事が帰り空席となった私の対面に座って、
「月曜日の午前中は、ひっきりなしにビルに人が出入りしてるんじゃなかったっけ?」
「ああ、丸柴さん、そんなこと言ってたね。おかげで、社員関係者のアリバイの有無は全然見当が付かないとか」
「でも、この写真には、三枝さん、と思われる人物ひとりしか写っていない」
「……そういや、変だね」
私は写真から理真に顔を上げて、
「どうして?」
「狙ったのかも」
「狙った?」
「そう、人が途切れるのを狙って、ビルから出た」
「どうして?」
「誰にも目撃されたくなかったから」
「ああ。でも、こうしてカメラには、ばっちり写ってしまったと? カメラの存在を知らなかった?」
「それはどうだろう。この写真の構図からして、カメラは廊下の天井隅に堂々と設置されているっぽい。見ればすぐに、そこに防犯カメラがあると分かる」
「カメラに写るのは覚悟のうえだった?」
「……」
理真は私のその質問には答えず、コーヒーをひと口飲んでから、
「とにかく、出発の準備をしよう」
「うん」答えながら私は立ち上がって、「もう一杯飲んだら、ね」
私は空になったカップを取った。
結局、私がもう一杯飲む間に、理真は二杯のコーヒーをお代わりして、私たちは店を出た。
アパートに帰り着くと、それぞれの部屋に戻って荷物をまとめる。
丸柴刑事から新幹線の切符を手配したと理真に連絡が入ったのは、それからすぐのことだった。
ほどなく迎えに来てくれた丸柴刑事の覆面パトに乗せてもらい、私と理真は新潟駅まで送ってもらった。
血税である捜査費から切符代を出してもらうのは恐縮する。私は移動費は出すと言ったが、丸柴刑事は、もう切符取っちゃったから、と言ってそれを固辞した。理真はその間、我関せず、とでも言いたげに涼しい顔をして、駅の売店で飲み物やらお菓子やらを購入していた。
丸柴刑事から切符を受け取った理真と私は、丸柴刑事に見送られて新潟駅十六時五十一分発のMaxときに乗り込んだ。高崎到着は十八時九分。一時間と少々の移動時間になる。
到着したら私たちは駅近くのビジネスホテルに泊まる。ホテルの手配は私がしておいた。
明けた翌日の朝一番に、ホテルに群馬県警の刑事が車で迎えに来てくれることになっている。
本来であれば、理真と私のほうから県警に挨拶に行くのが筋なのだが、群馬県警は現場である高崎市から少し離れた前橋市にあるため、少しでも早く事件捜査に取りかかる利便性を考慮して、こういう手筈となった。
捜査本部は管轄である高崎
ホテルに着き、夕食を済ませると、理真は愛用のノートパソコンを部屋のネット回線に繋げて、動画サイトを開く。私も理真の隣で同じ画面を見た。
画面に流れるのは、幻のアイドル三枝恵美のコマーシャル映像集。
その中に、ビキニを着て出演したカクテル飲料のコマーシャルがあった。映像はなかなかに扇情的で、三枝恵美の腕や脚を連続したカットで順番に映し、商品である飲料缶を顔の横に掲げた笑顔のアップで止まり、ウインクとともに商品名がそのピンク色の唇から漏れる。透き通るような美しい声。何て言うことのないカクテル飲料の商品名も、彼女の声で聞くと、ひと口飲んだだけで酔いつぶれてしまいそうな強烈な印象を受ける。
コマーシャル映像で改めて見た、その白く長い四肢は、防犯カメラに写った人物のものとよく似ていた。
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