ゆくりなく

   ひろみ

 団地の駐輪場で通りすがりの若い主婦が、わたしの幼い息子の腕をいきなりつかんだ。

 自転車のスタンドを立てていたほんの一瞬のことだった。

 その主婦はチャイルドシートから降りた裕人が、小さな子がいつでもそうであるように駆け出していくとでも思ったのだろう。

 だが、裕人はまったく動いていなかった。わたしの横で大人しくじっと待っていた。

 とっさに手が出たのだと思う。自分の子供も目の離せない時期なのかもしれない。派手な格好をしているがしっかりした感じのお母さんだ。

 彼女はバツが悪かったのか、裕人の腕を離すとわたしから顔を逸らせて食材の入ったレジ袋をがさがさ鳴らし足早に去っていった。

 あっという間の出来事だったが心に染みが広がった。

 あれは子供を危険から守る彼女の無意識の行為なのだ。そう言い聞かせて自分を納得させようとした。

 だがわたしには、「やっぱりあんたはダメ母ね」と言われているように思えてならなかった。

 わたしは子供から目を離したことはない。いきなり駆け出さないよう裕人に言い聞かせていても、いつもしっかり目の端で捉えていた。今だって。 

 裕人はとても聞き分けがいいので助かっているが、わたしも悪くはないと思う。

 今の場合、もしわたしに悪い部分があったとしたら、それはたとえ思い違いだったとしても、裕人を守ってくれようとした彼女にお礼を言わなかったことだ――

 ああ、また落ち込みそう。気持ちを入れ替えなければ。

 ダメ母と言われたように思うのは、きっとわたしの思い過ごし。

 そう思おうとした。

 そばにいた年配の女性が話しかけてくるまでは。



  まさえ

 派手な恰好をした若い主婦が幼い男の子の腕をいきなりつかんだ。駆け出そうとする腕白盛りの子供を止めたのだろう。

 もし駆け出していれば、乱雑に置かれた自転車に引っかかり転んでいたかもしれない。すぐそこの車道に飛び出していれば、車に撥ねられていたかもしれない。

 子供をちゃんと見ているお母さんで素晴らしいわと思ったが、自分の子供ではないらしく男の子を置いてすたすたと去っていってしまった。

 男の子のそばには別の女性が自転車のスタンドを立てていた。

 彼女が本当の母親ね。

 礼も言わないで、去って行く若い主婦の後姿をただぼうっと見送っている。

 今は無責任で礼儀知らずな母親が多い。さっきの若い主婦より上品で賢そうなのに人は見かけによらないものだ。

「ちょっとお母さん。子供は一瞬でも目を放しちゃだめなのよ。油断すると事故に巻き込まれて死なせてしまうんだから。今の人がいなかったら危なかったでしょ」

 いらぬおせっかいと思いながらも、つい言ってしまった。私にはつらい過去があったからだ。

 歩道で駄々をこねたお兄ちゃんに気を取られた瞬間、やんちゃだった下の娘が車道に飛び出してしまったのだ。

 あれだけ道路に飛び出してはいけないと言い聞かせていたのに。何度も何度も言い聞かせていたのに。その度にあの子はこくんと頷いて、「わかった」って言っていたのに。

 子供は何度言い聞かせてもだめだ。わかったような顔をしても油断してはいけないのだ。 娘が撥ね飛ばされた時のどんっという音が、今も私を責める。

 男の子の母親は戸惑いの表情を浮かべ私に会釈した後、買い物袋を持って子供と手をつなぎ立ち去った。

 自分の悪いところがわかってないって感じね。ああいう母親の子供がいつか事故に巻き込まれるのよ。その時にはじめて自分の愚かさに気付くんだわ。

 耳の奥でどんっと忌まわしい音が鳴り始めた。この音が響き出すと頭が痛くなる。

 どんっ。

 娘が弧を描きながらスローモーションで飛んでいく。

 どんっ。

 アスファルトに叩きつけられ、ピンクのワンピースが血に染まっていく。

 どんっ。

「お前もあの母親と同じだよ」

 血にまみれた娘があらぬ方向に曲がった首で私を見返る。

 人のこと言えた義理じゃないってわかってるよ。だからずっと謝ってるじゃない。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。



 ゆうこ

 うわっ、また余計なお世話やっちゃったよ。

 どうしてあたしったら、考えるより先に手が出ちゃうんだろ。

 あの男の子の腕、引っ張っちゃった。

 うちの子みたく、やたら走り出そうとしていたわけでもないのに。

 おとなしくて賢そうな顔をした良い子だったなあ。急に腕つかんで、よく泣き出されなかったもんだわ。

 母親に睨まれるのが怖くてあわてて逃げちゃった。

 ついやっちゃうんだよね。自分ちと同じ年頃の子供を見ると。今にも車に向かって飛び出しそうで、怖くて黙って見ていられない。

 うちの子なんてちょっと目を放した隙に走ってっちゃうもんだから、危ないのなんのって。

 まあ、目離すあたしが悪いのわかってんだけど、ついぶん殴っちゃったりして。

 でも、うちの子はこたえてないなあ。あんだけ怒っても叩いてもまた走ってっちゃうもんね。

 ひょっとしてバカ? あたしに似たのか? 

 あーあ、さっきみたいな男の子が息子だったら、ちょっとはあたしも楽なんだけど。

 なんてね。自分が産んだ子だから仕方ないっか。

 昼寝してたから放ってきたけど、絶対もう起きてるよな。そんでもって、とんでもないことしてそうだ。

 ママぁ、どこ行ったのぉなんて、泣きながら待ってるようなかわいげなんかないし。


 さて、鍵開けてっと。

 ああ、やっぱり。

 どうしようもなく予想を裏切らないガキだよ。ったく。

「こら、何してんだ、てめえ。あーあ、クレヨンで――

 襖がぁ、畳もぉ――

 今晩ハンバーグ抜きだからなあっっ」



  ひろみ

 わたしは裕人をしっかり見ている。

 果たして本当にそうなのだろうか。

 自分はきちんと子育てしているつもりでも、他人から見ればまったくできていないのかもしれない。特に子育てのベテランから見れば。

 さっきのおばさんの言葉がその証拠なのでは。

 そんなことを考えながら買ってきたものを冷蔵庫や棚に片付けた。

 裕人は行儀よくテーブルに着いて、買ってきたクッキーを食べている。きつく叱ったこともないのに、彼はお菓子の粉を撒き散らさない。飲み物もこぼさない。むやみやたらにおもちゃをぶつけたり、スケッチブック以外に落書きしたりもしない。母親としてはとても楽だ。だからといって母としての役目をおろそかにはしているつもりもない。

 裕人の好きなキャラクターのマグカップに牛乳を半分ほど注いで彼の前に置く。

「おいしい?」

「うん。おいしいよ」

 満面の笑みで返事が返ってくる。

 こんなに良い子なのは持って生まれたものだ。

 そう。わたしの子育てがいい成果をあげているわけではない。

 それが証拠にお姑さんからは会うたび注意を受ける。やれ怪我をさせるな、やれ注意して見ていろと。さっきのあのおばさんのように。

 きっとわたしの子育てがまずいからだ。

 そんなことはない、お姑さんの注意は起こってからでは遅いというただの忠告なのだと受け止めようとした。でも、どんなに言い聞かせても、お前はいたらない母親だと言われているように思えて仕方なかった。

 どうやったら立派に務めを果たせるのか、認めてもらえるのかわからなくて、次第にお姑さんと顔を合わせるのが苦痛になってきている。

 わたしはこの子をきちんと見ています。

 そう自信を持って言えたらどんなにいいだろう。

 でも、そう言った途端に裕人に何事か起きたらどうする?

 彼が立派に育つまでわたしは子育てに自信を持ってはいけない。

 もしかして本当にいたらない母親かもしれないから。

 お姑さんが言うように。

 さっきのおばさんが言うように。

 ああ、もうこんな時間。早く夕飯の支度をしなくては夫が帰ってくる。

 少しくらい夕飯が遅れたってあの人は怒らない。失敗してもまずいとは言わない。

 その代わり、どんな料理を並べてもおいしいとは言わない。一生懸命作っても褒めてはくれない。

 それにあの人はわたしをかばってもくれない。

 床に正座させられて、延々と子育てについてお姑さんに説教されていても、知らぬ存ぜぬで新聞を読んでいる。

「こいつはちゃんとやってるよ」って言ってくれたら、たとえお姑さんから開放されなくてもどんなにか救われるだろう。

 うそでもいいから褒めて欲しい。ううん、褒めてくれなくてもいい。「めし」や「風呂」の単語だけじゃなく、ちゃんとした言葉をかけて欲しい。

 でも、あの人が何も言ってくれないのは、やっぱりわたしがダメな妻で、ダメな母親だからなのか――

「ママ」

 ぼうっと立ちすくんだままのわたしをつぶらな瞳がまっすぐ見ている。

 こんなに良い子なのに、あの人もお姑さんもこの子には無関心だ。

 あの人は新聞と自分の好きなテレビ番組があれば後はどうでもいい。

 そしてお姑さんは息子だけ。その息子を立派に育てあげたという自負がわたしの子育てに口を出す。この子のためなんかではない。大の男に猫なで声で話しかけこそすれ、孫の頭を撫でたことなど一度もないのだから。

 わたしたちはどうがんばっても、あの二人からは認められることはない。

 駐輪場でこの子の腕をつかんだ若い主婦、目を離すなと言ったおばさんの顔が浮かぶ。

 あの人たちもきっとわたしを認めてくれないだろう。これからは彼女たちの視線にも気を配らなければならなくなる。いや、団地中のみんながわたしをダメな母親だと見ている。どんなにきちんとやっていても誰も認めてはくれない。

 わたしはつぶらな瞳を見つめ返し微笑んだ。

「ママね、疲れちゃった」

 この子はわたしの子だ。夫やお姑さんに残してはいかない。

 裕人の細い首に手を回す。

 わたしは本当にダメな母親だ。



  まさえ

 きょうはあれからずっとあの音に責められていた。いくら謝っても許してはくれない。

 何度もお兄ちゃんに電話して、ようやく安心できた。いつものように。

 今はもう結婚して家庭を持っているお兄ちゃん。

 あの子が死んだ時、私は真っ先にお兄ちゃんを責めた。「お前がぐずるから」と。

 今は目を離した自分が悪かったのだとわかっている。しかし、あの時は誰かのせいにせずにはいられなかった。

 あれから元気で活発だったお兄ちゃんは変わった。

 夫は娘を死なせその罪を長男に被せた私に愛想を尽かせ出て行った。お兄ちゃんも一緒に行こうとしたが、妹を死なせて逃げるの? と私が責めたので残ってくれた。

 連れて出ようと夫は頑張ったが、結局私のそばにずっといてくれ、罪を乗り越え成長した。

 ようやく自分の罪だったと気付いた時は、お兄ちゃんが高校卒業と同時に家を出た後だった。

 電話で謝ると笑って許してくれたが、あれから二度と家に戻ってこない。きっと苦しい日々を過ごしたところに帰るのは辛いのだろう。

 ほぼ毎日あの音に悩まされ、電話で助けを求める私に、「もう許してくれてるよ」と優しい言葉をかけてくれる。

 お兄ちゃんにも苦しかった日々を思い出させるのに電話をせずにいられない。何度も、何度も。それでも彼は優しくなぐさめてくれる。

 それにしても、お嫁さんや幼稚園児になっている娘に、いまだ会わせてもらっていない。

 きっと、嫁姑問題や幼女を見て私が苦しまないようにというお兄ちゃんの配慮なのだろう。

 気を遣わないでいいのよ、いつでも遊びに来てねと言っても電話の向こうでわかったと笑うだけ。そこから先へはいっこうに進まないけど、いつまでも気を遣ってくれてるのね。

 なんて優しいお兄ちゃん。ひどい母親だったのに――

 少しでも自分みたいな母親をなくすよう私もがんばらないと。例えうざいおばさんだと思われようと注意してあげなければ。 きょうのように。

「私がしないで誰がする?」 

 あのお母さんに注意できてよかった。本当によかった。

 さあ、夕飯にしよう。一人は寂しいけど、手の込んだ料理をしなくていいから楽だわ。

 あら、救急車の音? 好きじゃないわ、この音。だって思い出すもの、あの音を――あの忌まわしい――やだ、近いわ。この団地に来たのかしら。パトカーのサイレンもする。何かあったの?



   ゆうこ

「あっ、研ちゃんママ? おはよー、今電話いい? 夕べはびっくりしたよね。救急車とパトカーが来るなんて。

 ったく、おかげでうちのガキ、興奮しちゃって。乗るなって言ってんのにベランダの柵によじ上りそうになるしさ。ピカピカ光る赤い光に騒いじゃって、もう。

 団地なんだからさあ、周りのこと考えてサイレンなしで来ればいいのに。

 ははは。そんなわけにはいかないか。

 うん。そうなのよ。何があったか研ちゃんママに聞こうと思って電話したの。騒ぎの時見に行こうかと思ったんだけど、ちょうどハンバーグの種こねてたからさあ。

 へえ、そっちの棟だったんだ。えっ、心中? 子供とお母さん? ええーっ、どんな人? うーん、知らない。へえ、きちんとした人だったんだ。なんか悩みあったのかな? ほんとだねえ。そんな人ほど、思い詰めたりするんだよねえ。そうそう、うちらみたいなんが、しぶとく生きるって言うか。

 ふうん。子供も大人しくってお利口だったんだ。何で子供まで道連れにねえ。

 わかんないもんだねえ。ほんと、原因はなんなんだろ。

 子供がさ、やんちゃでも、家が貧乏でも、まあ、楽しく暮らせてたらいいかって気になってくるね。うん。死んだらおしまいだもん。そのお母さんもさ、それぐらいの気でいたらよかったんだよ。矢でも鉄砲でも何でも持って来いってくらいにさ。うん、うん。そうそう。ほんと、うちらには考えられないね。

 あ、うん。わかった。後で一緒に買い物に行こ。そのとき、またね。じゃ」

                        

ゆくりなく=故意でなく

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