第17話

 明治の代より海運会社を経営する溝口(みぞぐち)家の邸宅は後期フランス・ルネサンス様式。

 これは上海シャンハイのフランス租界地区でよく見られる建築で、白亜の総2階建て。やたらに横に長い造りだ。主殿同様、広くて様細長い前庭とその先の公道を高い煉瓦塀で仕切っていた。

 門扉は東側にある。

 小夜子が言っていたように、門扉に立った場合、中央に位置する玄関とそこへ続く長い私道(ドライヴウェイ)、そして東側の壁部分が見える。

 さて。

 探偵もその助手も、ともに大邸宅に生まれ育ったことが、今回、幸いした。 

 建築様式はどうあれ2人とも洋館の造りに明るいから、何処に主要な部屋(主寝室や客室、子供部屋、ドレッシングルームや娯楽室等々)があるかおおよその見当が付いた。使われていない部屋が多いことも、また知っている。

 その上で、溝口家探索に当たって興梠(こおろぎ)は予(あらかじ)め決めていた。

 一つ、二人揃って行動する。

 一人づつ分かれた方が効率は良いかも知れないが、警察ではない以上、不法侵入の罪を問われたくない。二人一緒なら、万が一見つかった場合でも言い逃れが容易だ。

 二つめの注意は、何であろうと決して手を触れないこと。

 探索は目視だけで行う。但し、ドアに鍵が掛かっていた場合は……

「その時は仕方がない。僕が開けるよ」

「ええっ? 僕にやらせてよ! 何事も実地訓練が大切だよ!」

「いや、今回はダメだ」

「ちえっ」

 実は興梠は志儀(しぎ)に各種鍵開けの秘儀を伝授している。

 一応探偵の助手であるのだから、いざという時のために、暇な時間に訓練を施して来たのだ。そして、興梠探偵社は、〝暇な時間〟が山のようにあった――

 そういう理由(わけ)で、今では志儀も鍵開けに関してはかなりの腕前(スペシャリスト)である。

 とはいえ、幸か不幸か、溝口邸には鍵の掛かった部屋は存在しなかった。

 1階は、厨房と使用人部屋と普段使いの食堂。居間。第1応接室、第2応接室――〈海府レース〉御曹司の志儀と家庭教師・鈴虫(すずむし)が招き入れられたのはこの部屋である、客用の食堂、喫煙室(ビリヤード台設置)、そしてトイレ、浴場。納戸として使用している空き部屋もあった。そこには埃よけの布で覆った不要の家具類、パーティの際に使用する予備のテーブルや椅子、車椅子などが何れも整然と収容されていた。

 2階には、パーティが可能な一番広い第3応接室。大小の客室が4つ。書斎と図書室――これは亡き溝口当主の個室でもあったのだろう。そして、主寝室と夫人の居間らしき部屋、朔耶(さくや)の自室らしき部屋。



 ―― 朔耶さんの声を聞いた時の状況をできるだけ詳しく話してください。


 探偵の言葉に、昨夜、久我小夜子(くがさよこ)は言った。


 ―― 一目だけでもその姿を見ることができたらと思って、私、

     門扉の隙間からお屋敷の中を覗いたんです。

 ――  外からですね? 中には入らなかったの? 


 娘を頬を染めて首を振った。


 ―― 勿論です。私なんかが入れるはずない。

    覗くのだって、精一杯、勇気を奮い起こしたんですよ。

    でも、勿論、朔耶さんの姿など何処にも見えなくて……

     諦めて帰ろうとした、その時でした。

    聞いた気がしたんです。あの朔耶さんの口癖を。

 

――  そこをもっと詳しく。

    どういう風に聞こえたんです。声の聞こえた方向は?


 また激しく娘は首を振った。


 ―― ダメです。そんなこと説明できない。

    ほんとに聞いたのかどうかさえ今となっては自信がないのに。

    言ったでしょ? 〝聞いたような気がした〟だけだと。

 

―― 胸の中で響いたの? それとも、耳で聞いた?


  暫く娘は考えてから、


 ―― 違う、胸の中じゃない。ふわっと木霊(こだま)したのよ。

    一瞬、こう、空から振って来るように……



  つまりこのようには考えられないか?

 邸宅の何処か一室に鍵が掛かっていて、そこに朔耶が閉じ込められている……

 自宅に幽閉されている一人息子は、自分を探しにやって来た愛する娘の姿を窓越しに見て、思わず声を発したのだ。二人だけに通じる合言葉。まさに愛の言葉を。


    

     会おうな



  だとしたら、朔耶の部屋は門扉に近い東側、しかも見晴らしの良い、展望の開けた2階のはず。

 それなら、『空から降って来た』と言う小夜子の言葉にも合致する。

 探偵の推理は当たっていた。朔耶の自室はまさしく二階の東端だった!

 だが、当たっていたのはそこまでだった。

 その部屋は、鍵も掛かっていなければ、誰か人のいた気配も無い――


「読みが外れたね、興梠さん?」

 露骨にがっかりした声で志儀は言った。空っぽの部屋を見廻して肩を竦すくめると、

「ここにもいないって事は――朔耶さんはやはり実家には戻っていないんだよ!」


 そこはいかにも社長令息にふさわしい豪奢な部屋だった。

 12畳と8畳、2部屋続き。ドアではなくアールに切った壁越しに行き来できる。

 向こう、8畳の方がベッドルームだ。こちらの広い12畳には、書き物机や書棚、お茶を飲むためのテーブルに、ソファ、一人賭けの肘付き安楽椅子……

「この部屋をどう思う、フシギ君?」

「殺風景だな! 凄く寒々しいや」

 苦笑しつつ探偵は確認した。

「君流に言えば、アレだな、〈愛のない整理整頓〉?」

「そう! でも、お世辞じゃないけど、興梠さんの部屋の方が少しマシだよ。良かったね!」

「何故、そう思うんだい?」

「うん、興梠さんの部屋は、事務所も含めて、壁は賑やかだからね!」

 パチンと指を鳴らして助手は叫んだ。

「興梠さんの部屋には孤独を埋める代用として、孤独の数だけ絵が飾られているから!」

「最後の台詞は必要ない。だが、いいところに気づいたね? その通りだよ」

 朔耶の部屋の壁は真っ白――実際は壁紙は貼ってあるが――だった。

 興梠は踊り子のアパートの1室を思い出した。あの狭い6畳間の壁いっぱいに飾られていた鳥の写真……

「やはりな」

 近寄って見ると壁紙に日焼けした部分とそうでない部分がある。

 少しづつかも知れないが朔耶はここに飾っていた写真を全て恋人の部屋へ移したのだ。

 彼の真実の住処(すみか)が何処か、それでわかる。

 誰とともに未来を生きようとしたか、が。

 ここはとっくに打ち捨てられた空(カラ)の巣なのだ。


「?」


 探偵の視線が隣室のベッドの上で止まった。

「へえ! ここだけは整理整頓じゃないね?」

 少年も気づいたらしく呟いた。

 ベッド自体はきちんと整えられている。が、その上に何冊もの冊子が散らばっていた。

「ひええ、こっちは〈愛の無い乱雑〉だ!」

「いや、違う」

 助手の言葉をいつになく険しい顔で興梠は否定した。

「これは……〈愛のある乱雑〉だよ!」


 (クソッ、だから、始末に終えないのだ……!)


 冊子はアルバムだった。 

 手を触れなくても、開きっ放しになっている頁(ページ)から、そこに貼られているのが朔耶の写真だとわかる。様々な年代の当屋敷の一人息子の写真――成長記録のアルバムだ。


「……」


「ねえ、興梠さん? 僕たちそろそろ退散した方がいいんじゃないの?」

 アルバムを見下ろしたまま石化したように動かない探偵に、遂に助手が声をかけた。

「一応、邸内全ての部屋を捜索したんだし、これ以上長居してあの溝口婦人と鉢合わせするのは、僕、遠慮したい」

「ああ、その通りだな」

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