第16話
「……僕は大変な失策ミスを犯してしまったのかも知れない」
丘の上の探偵社へ戻って、ビューローの前に腰を下ろすと興梠響(こおろぎひびき)は呟いた。
「興梠さん?」
その夜。
例によって、ベッド代わりの黒革のソファで眠っていた志儀(しぎ)がふと目を醒ました時も、探偵は同じポーズのままだった。
ライブラリィ・ランプの緑色の灯に照らされた探偵の横顔……
「グルル」
志儀のパジャマの胸に擦り寄って黒猫が喉を鳴らす。
「わかってるよ。邪魔をするなと言うんだろ? 探偵は今、重大な謎を解いているんだから? あのね、ノアロー、そのくらい僕にもわかってる。何と言っても僕は第1番目の助手なんだから」
「ニバ~~ン」
志儀は耳を疑った。
「おい? ひょっとして、おまえ、自分が〈一番目の助手〉とか思ってるんじゃないよな?」
「フシギ君、起きたまえ。朝食を食べたらすぐ出掛かけるぞ!」
志儀は揺り起こされて目を醒ました。
朝の光に溢れた探偵事務所。
探偵は既に身支度を済ませている。曰くエドワード8世の愛したフランネル、グレイのスーツにネクタイは黒と言う渋さ。一体何処へ行こうと言うのか?
「君のスーツも用意してある」
「僕も? またスーツ着用? 〈ダンシング・バア・ミュール〉じゃないよね?」
少年の問いに興梠は首を振った。
「残念だが、違う。だが、今日は、君に大いに働いてもらうつもりだからね? よろしく頼むよ」
「え?」
「〈海府(かいふ)レース〉様の……?」
差し出された名刺を白手袋に押し頂いたまま執事は困惑した表情で立ちつくした。
「そうです! 今日は僕、父の名代(みょうだい)で参りました!」
ネイビーの格子縞のメルトンのスーツに赤い蝶ネクタイ。
宛(さらが)ら、ルノアールの絵から抜け出たような美少年がスラスラと挨拶の言葉を述べる。
「こちら溝口(みぞぐち)の奥様には日頃からただならぬご愛顧をいただいて本当にありがたく思っております!」
「左様でございますか。しかし、誠に残念ながら、本日、奥様は外出中でございまして――」
「ええええ! そうなんですかあ! じゃ、仕方が無い、待たせていただきます!」
「は?」
「僕、奥様がお帰りになるまで待たせていただきます! 構いませんよね、横山(よこやま)さん?」
「!」
「貴方は執事の横山さんですよね? いやあ、常々奥様から貴方のお話も伺っています! 『優秀な執事を持って幸せだ』とかなんとか。 だから、僕、貴方と初対面だという気がしないなあ! あ、僕の名前は先刻言いましたよね? まだだった? 失敬、 僕、〈海府レース〉の社長の息子で海府志儀(かいふしぎ)と言います。で、こっちが――僕の家庭教師兼お目付け役の……鈴虫(すずむし)さん」
「どうも、鈴虫です」
「――」
もう一度、名刺に視線を落としてから、執事は塞ぐように立っていた玄関扉の前から身を退いた。
「どうぞ、お入りください」
「わあ! 流石は溝口のおば様! 壁紙といい、シャンデリアといい、趣味がいいなあ! あ、この花瓶はガレ? 僕の父さまも似たのを持ってるよ!」
応接間に通されるやいなや、四方八方見廻して盛大に感嘆の声を漏らす志儀だった。それから両手を叩いて、
「そうだ! 大切なことを忘れちゃいけないや! こちら……今、お屋敷内に居られる使用人の方たちは何人なの? 横山さん?」
「と、おっしゃられますと?」
怪訝(けげん)そうに眉を寄せて執事は問い返した。
海府レース会社社長令息は落ち着き払って応える。
「父から、いつもこちらの奥様にはお世話になっているので使用人の皆様にもお土産をと言付かって来ました。勿論、我が〈海府レース〉の最新商品です!」
執事は白手袋を振って固辞した。
「そのようなお心遣いは……」
「まぁた! 硬いこと言っちゃダメだよ、横山さん! ほら、これ持ってって! 皆で分けてよ! いいんだよ、これも、宣伝活動なんだから! 〈皆様に愛される商品を! 世界の海府レース〉ってね。ウチのキャッチフレーズさ! おい、何ぐずぐずしてるんだ、鈴虫君。早くそれをお見せして」
志儀に命じられて家庭教師兼お目付け役が開けたトランクの中には――
ぎっしり極上品のレースとレースで飾られた小間物――襟飾りやポシェットや宝石箱、ピルケース、ブラウスにエプロン、暖簾に壁掛け、ぬいぐるみに状差し……とにかく、これでもかと詰まっていた。
「きゃあ!」
思わず叫んだのはお茶の盆を持って入って来たメイドである。
「ほら、可愛いメイドさんももう喜んでくれてる。さあ、どうぞ! 使用人室へ持って行ってお気に入りの品をゆっくりとお選びください! ね? 横山さん!」
年若いメイドにフロックコートの背を突つかれて、執事は渋々頷いた。
「さ、左様ですか? では、お言葉に甘えて……」
「さてと」
紅茶を飲み干すと家庭教師兼お目付け役・鈴虫ならぬ興梠はベントサイドの背広の裾を跳ね上げて立ち上がった。
「これで暫く時間が稼げる。行くぞ、フシギ君!」
「アイ・アイ・サー!」
何しろ広大な邸である。許された時間内――使用人たちが土産の品々を物色している間――に当邸内の全ての部屋を調査するつもりだ。
すばやく廊下に出ながら、一言だけ、探偵は助手に苦言を呈した。
「それからね、言っておくけど、フシギ君。君、僕の用意した偽名をその場で変えたね? あれは良くないよ」
「何でさ? 〝田中〟なんて面白みが無いじゃないか」
「名前なんてものは目立っちゃいけない。探偵業に関わるものとして憶えておきたまえ。変な名はやめて記憶に残らないような地味な名前を選ぶこと。基礎だよ、フシギ君」
「でもさ、〈興梠〉だって、かなり変な名前だよ?」
「グ」
「それにさ、僕のことフシギなんて呼んで悦に入ってるから、興梠さんも変な名が好きなのかと思ってた!」
「――」
ああ言えばこう言う、なんと機知に富んだ可愛らしい助手だろう!
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