第18話

「本当に残念なんですが……」


 使用人部屋までやって来た志儀(しぎ)。執事を呼び出すと神妙な顔で告げた。


「僕、今日、ピアノの特別レッスンがあるのを思い出したんです。それで、お暇(いとま)することにしました!」

「え? そうなんですか?」

 流石に驚く執事。

「奥様をお待ちになるものとばかり思っておりましたが……」

「そのつもりだったんです。でも、今日は帰ります。溝口(みぞぐち)のおば様とお会いするのはまたの機会にします」

「そうですか。このたびは私どもにまで過分なお土産をいただき、誠にありがとうございました。どうぞお父様、海府(かいふ)様に御礼申し上げてください。使用人一同、心より――」

「いえ、僕たちこそ!」

 志儀は飛びついて執事の手を握り締めた。

「ほんっとに、ご協力感謝します!」

「協力? はて、私どもが何か――」

「しまった、いえ、こっちの話、では、失礼します!」

「あ、海府のお坊ちゃま、これを――」

 空になったトランクを差し出す執事。

 引っ手繰るや後ろも見ずに走り去る〈海府レース〉御曹司と、それに続く家庭教師兼お目付け役だった。

 そんな二人を礼儀をわきまえた優秀な執事は恭(うやうやし)く一礼して見送った。



「ふう……脱出成功!」

 玄関の扉が閉まったのを確認した上で助手は探偵に訊いた。

「それで? これからどうするの、興梠(こおろぎ)さん?」

 頼みの探偵は、朔耶(さくや)の寝室でべッドの上に取り散らかされたアルバムを目にして以来、ムッツリと口を噤んでいる。

「興梠さん、ってば!」

「え? ああ、これから? そうだなあ……ん?」

 荘厳な玄関から門へ向けて私道(ドライヴウェイ)を歩き始めようとした探偵の足が止まる。

 その視線の先を志儀も目で追った。

「やあ! こりゃあ、素敵な噴水だなあ!」

 玄関の奥、長方形の前庭の最奥に、噴水のある丸い池がある。欧州の庭園でよく見られるスタイル。大理石で造った人工の泉だ。

 興梠は体を捻って門扉を振り返った。

 間違いない。噴水は門扉から一直線上にある。

「どうしたの、興梠さん? 何か気に掛かることでも?」

「気に掛かるというか――」

 今一度、噴水に視線を戻すと口早に興梠は言った。

「とにかく、あそこへ行って見よう、フシギ君!」




「わーお……!」


 興奮して駆け寄る少年の足音にのんびりと漂っていた野鳥が数羽、羽をばたつかせて飛び去った。

 さほど大きな池ではないが水辺を恋う鳥たちにはそれなりに憩(いこ)いの場所なのだろう。

 そして、それは人間にとっても同じこと。

「ほんとにここは素敵だな! う――ん……」

 少年は大きく伸びをして息を吐いた。溝口邸大捜索の緊張がみるみる解(ほぐ)れて行く。


 そこは独特の洒落た造りの池だった。

 大きな花を地中に埋めたような形。直径は3mくらい、中央にこれまた見たことのない意匠の噴水が設えてある。

 池が花弁なら、突き出た噴水は蕊(しべ)のごとき筒状で、天辺には丸い玉が幾つも乗っている。その先端から絶え間なく水が零れ落ちていた。

「ほう! セーブル様式だな!」

 美学を修めた探偵は驚かなかった。

「アンリ・ラパンの最新のデザインに似ている。何てこった! これは大理石ではなく磁器だよ! 素晴らしいね? ――おっと」

 うっとりと噴水を見上げている少年に探偵が声をかけた。

「足元に気をつけたまえ、フシギ君」

「え?」

 注意されて、志儀も気づいて飛びのいた。

「ひゃあ!」

 優美な池の周囲は水浸しだった。

 水量の調整がおかしいのか、よく見ると縁から水が滴っていた。

「ゴメン、興梠さん。興梠さんに借りたお洒落な靴――フランチェジーナだっけ?――を濡らしちゃった!」

「そんなことはいいよ、滑ると危ないからから言ったまでさ。それより、見たまえ、このデザインはアール・デコを代表する――」


   会おうな


「え」


 ハッとして興梠は天を仰いだ。

 今、確かに……


「ど、どうしたの、興梠さん。やっぱり靴を台無しにされたのが衝撃だった? いいよ、僕、弁償して返すよ? 父様に言って――」

「そうじゃないったら! そんなことより、フシギ君、今、聞かなかったか?」

「え?」

「声がしたろう?」

「どんな?」


   会おうな


 その言葉を告げようとして、興梠は思いとどまった。

「いや、まさかな」

 頭を振って周囲を見廻す。


 ―― 私、聞いたんです。一度だけだったけど、朔耶さんの声を。


 ―― 空から降って来るような声……

     天から響いて来たみたいだったから、

    きっと、幻……幻聴だわ。


 今一度、興梠も空を仰いだ。


  (同じだ。)


 確かにその声は天から……空の高みから降って来た気がする。


 挙動不審な探偵を見て助手が心配そうに訊ねた。

「どうしたのさ、興梠さん。大丈夫?」

「もう一回、確認させてくれ、フシギ君。君、先刻、ほんとに何も聞かなかったかい?」

「?」

「人の声がしただろ?」

 少年はきっぱりと首を振った。

「ううん。僕、何も聞こえなかった。人の声なんて……」

「――」


 これはどうしたことだ?

 いや、これこそ重要な〈鍵〉かも知れない。謎を抉(こ)じ開ける……


   ( 落ち着いて考えてみろ、興梠響! )


 自分自身を叱咤する探偵。


 俺も、小夜子(さよこ)さんと同様に、今、あの声を聞いた。

 俺と、小夜子さんだけが?

 しかし、よく考えたら、〝少年は知らないのだ〟。

 朔耶と小夜子――恋人たちの秘密の合言葉……愛の挨拶を。

 だが、俺は〝知っている〟。小夜子さんに教えてもらったから。


 このことの意味するものは何だ?


 知っている者だけが聞くことのできる声……? 

 そんな馬鹿な……


  腕を組んだまま立ち尽くす探偵。

 そのお洒落な靴――こちらはブルーチャー、プロシア陸軍元帥の戦闘用ロングブーツがルーツの外羽根式――を池の縁から滴り落ちる水が濡らして行く。


 どのくらい経っただろう。


 庭園の木々の梢を揺らして、また野鳥が飛び立った。熟考していた探偵はその羽音に吃驚して顔を上げた。


「あっ――……」




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