第13話


 ノアローには、その日、探偵が繰り広げた失態の数々は見られなかったものの、無様な傷跡の方はしっかりと見られてしまった。

 湯船――明治の代に祖父が建てた元医院の探偵社は完全なる洋館で、従って浴槽も猫足のホーローのバスタブである――に浸かっている探偵を、日頃は何処にいるかわからない黒猫がその夜に限って、洗面台のキャビネットの上からずっと睥睨(へいげい)していた。

「ほら、どいて、ノアロー! 興梠(こおろぎ)さんに渡すんだから」

 猫の下からバスタオルを抜き取りながら志儀(しぎ)が振り返る。

「で、傷はどんな具合? 医者を呼ばなくて、本当に大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。骨は折れちゃいない。それより――」

 タオルを受け取って興梠は立ち上がった。

「『大きな不幸には小さな幸福が付いてくる』という西洋の諺(ことわざ)を知っているかい、フシギ君」

 痣だらけの体にタオルを巻いた探偵は、目いっぱい威厳を保って頷いて見せた。

「溝口朔耶(みぞぐちさくや)の失踪に関して、久我小夜子(くがさよこ)嬢の線は消えたが、どうやら僕たちは新しいカードを手に入れたようだ!」 

「ニヤアァァァァ~~~」

「……ノアローがなんて言ったか翻訳してやろうか、興梠さん?」

「あ、いや、結構だよ」




 翌日の夕刻。


 夕焼けを背に歩いている男の姿。

 俗に言うナッパズボン。革ジャンがよく似合う、一見、優男(やさおとこ)の風貌である。

 土手を駆け下りて飛び込んだ集合住宅の1階。

 金鍍金(メッキ)のドアノブに手を置いた刹那、真横から声をかけられて男はギクリとした。

「お帰りなさい。お待ちしていました」

「誰だ、貴様――」

 傍らに立った興梠の顔を見て男は目を見張った。

「昨夜の? ははあ、 なるほど?」

 反対側から擦り寄った少年にも背線を走らせる。

「おまえら、昨夜の借りを返そうってわけか?」

「誤解しないでください。僕らは少し話を聞きたいだけだ。でも、ご注意を」

 興梠はすばやく目配せした。

「この子は〝棒状のもの〟を持ったら強いんです。そこそこやりますよ」

「棒状?」

 助手はマントの裾を払って握っている蝙蝠傘を見せる。

「oui Monsieur (ウィ ・ムッシュ!)」

「ち、昨夜で懲りたと思ったのに。それにしてもやるじゃねえか。こんなに早く? 俺のことよく割り出せたな? 塒(ねぐら)まで嗅ぎつけるとは……」

「身体的特徴は探索し易いんだよ。そのイカしたスカーフェイスがアダとなったね、お兄さん?」

「君は黙っていたまえ、フシギ君」

 咳払いしてから、落ち着いた口調で興梠は確認した。

「貴方のお名前は赤松朝雄(あかまつあさお)。現在のご職業は――港湾労働者請負会社の世話係ですね?」

「洒落た言い草だな?」

 薄く男は笑った。傷が引き攣って凄みのある美男子である。

「〝世話係〟ねえ? まあ、沖仲士や人足の手配から監督……揉め事の仲裁まで手広く任されてはいるがよ」

 志儀が言い添える。

「ちなみに通り名は〈三日月の朝(アサ)〉。かっこいいなあ! それってその頬の傷から来てるんでしょ? 新港町や波止場町――海岸通り界隈で貴方の名を知らないチンピラはいなかったよ。パンチが尋常じゃないはずだ。ボクサーを目指してたそうですね?」

「な、何だってそんなことまで――」

 目を白黒させる男に改めて興梠は告げた。

「それが専門ですから」

 ソフト帽を軽く持ち上げると穏やかな声で、

「僕らの本職は〈探偵〉なんです」

「たんてい? ……探偵だって?」

「ご理解いただけましたか? 今日、こうして伺ったのは他でもない、穏便に貴方と話がしたかったからです」

「そういうことなら――」

 体を反転させる男。咄嗟に志儀は傘を持つ手に力を込めた。

 が、意外にも――

 赤松朝雄はアパートの扉を勢いよく開けると、言った。

「立ち話もなんだ、入んな!」





 ※ナッパズボン……インダストリアル系パンツと記しているサイトもありました。菜葉服とも。

  昭和初期当時流行った労働者向きの仕事着、作業着。幅の広いワークパンツです。

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