第11話
同日の同時刻。
N県警〈X村連続婦女行方不明事件〉特捜班本部室。
箱を掲げて特捜班副班長でもある杏子(きょうこ)の父、長谷部誠哉(はせべせいや)が入って来た。
「もう返却してもよろしいでしょうか?」
「ん?」
積み上げられた報告書から顔を上げる特捜班班長の大坪要(おおつぼかなめ)。
「島田紫(しまだゆかり)の衣類その他です」
遺留品という言葉は誠哉は使わなかった。
「親族の者が引き取りたがっているのですが……」
「ああ。一通りの調べは済んでいるのだろう? 返してやってくれ」
被害者が誠哉の友人の一人娘だったことを思い出しながら大坪は改めて確認した。
「特に奪われたものや紛失していた物などはなかったんだよな?」
「ええ。親御さんの知る限り――特に母親に念入りに確認してもらいました。やはり、こういうことは女親でないと」
険しい顔で誠哉は答える。
「それによると、全て揃っているそうです。失くなったものは何もない、と」
「それが何かゾッとしますよね?」
若い刑事が口を挟んだ。
「制服はもちろん、シュミーズやズロース、ソックスやリボン、腕時計に至るまで、その日、身につけていたものは〝全て〟きちんと戻されている」
もう一人の刑事も、
「戻っていないのが〝本人だけ〟とは……!」
特捜班の刑事たちは異口同音に声を上げた。
「一体、何処へ行ってしまったんだろう?」
「或いは、何処へ隠してあるんだろう?」
言うまでもないが、殺人事件で殺人者が一番苦慮するのは殺害後の遺体の処遇なのである。
刑事たちは皆そのことを知っていた。
「今回、同一犯なら……そして、殺害が実行されていると仮定するなら……」
あくまでも慎重な口調で班長・大坪は言った。
「計4名もの身体を犯人は何処へ〝隠している〟のだろう? もちろん、一箇所ではなく分散している可能性もあるが」
「〝隠していない〟可能性もありますよ」
若い刑事、菊池が手を挙げる。
「何らかの方法で処理したのかも知れません」
「と言うと?」
「例えば薬品を使用する。ちょっと調べてみたのですが、骨まで溶かすその種の薬剤は幾種類かあります」
「だが、入手は簡単じゃないだろう?」
「だからこそ、ですよ! その辺りから犯人像を絞り込めるのでは?」
「なるほど。薬に知識がある者――薬剤師や医師だな?」
「医学生や薬学部の学生、その他には理数系の大学生なんかも勘定に入れてもいいのでは?」
これは年嵩さの刑事の意見である。更に続けて若者が指摘した。
「薬剤の入手経路は勿論、処理する場所も特定要因かも。家が建て込んでいる都会の住宅街や、普通の民家などでは、死体を溶かすなんて作業、ちょっと無理でしょう?」
「広さや場所の確保だけでなく、その、薬剤の匂いにも気を配らなければならないものな?」
「変な匂いがするって通報されたんじゃ、犯人もたまったもんじゃない」
「ヒュー! 俺たちは大助かりだがな!」
おなじみ〈大坪の蛇笛〉が響き渡った。
ここで軽い笑いが起こる。
暫く笑った後でまた刑事たちは議論を再開した。
「そうなると周囲に何もない空家とか廃屋が必要だな?」
「大学や学校も狙い目かも。実験の匂いだと言えば通用する」
「しかし――」
大坪は白髪の目立つ頭を掻いた。
「どれもこれも仮定の話ばかりだな……」
誠哉も首を振りながら残念そうに息を吐く。
「例の国鉄の駅で消息を絶った娘のその後の追跡調査も行き詰ってしまったし……」
また若い刑事が手を挙げた。
「これだけ探って何も出てこないんだ。娘が使ったのは電車じゃありませんよ」
「しかし、タクシーなら、とっくに情報が入って来てるはずだぞ。市内の全てのタクシー会社には協力を要請してあるんだから」
班長が呻いた。
「残るは個人の車か?」
ありえない、と首を振る副班長の誠哉だった。
「それなら、もっと特定しやすいじゃないですか! あんな田舎ですよ? 万が一、車なんか見かけたら、女子供だって色や車種まで憶えるはずだ……!」
「だから、真っ赤なオースチン7よ!」
その、女であり子供でもある長谷部杏子(はせべきょうこ)が声を張り上げた。
「嘘じゃないんだろうな? それとも、おまえ、夢でも見てたとか?」
「失礼ね! 兄さんこそ、何度言わせれば気が済むのよ!」
月曜の朝。駅へ向かう道。
通学途上の直哉(なおや)と杏子の兄妹が頻りに言い合っている。
「しかし、真っ赤な外車とはねえ! 何度聞いても信じられないよ! あの興梠(こおろぎ)がそんなもの乗り回しているなんて」
大いに憤慨して鼻を鳴らす兄。
「水臭い奴だ! それが本当ならもっと早く教えてくれても良さそうなもんだ! 僕だって乗せて欲しいよ!」
「だから、兄さんが思ってるほど興梠さんは兄さんのことなんて親しく感じてないのよ。だって言ってたもの」
「俺のこと嫌いだってか?」
「嫌だ、そうじゃなくて――興梠さん言ってたわ。『何処かへ連れて行くために人を乗せる以外、自分独りでは車は使わない』って」
「だから?」
「もう! 鈍いんだから! いい? 兄さんなんか興梠さんには〈人〉の部類に入っていないのよ。それだから、今まで乗せてもらえなかったんだわ」
「おい、その言い方はあんまりだぞ。俺は深く傷ついた……」
「いいじゃない、あんな人。この際、兄さんもサッサと縁を切っちゃいなさいよ。とにかく、私はもう懲り懲り。顔も見たくないわ」
土曜日の午後、瀟洒な洋館で聞いた興梠の出自や特異な体験について、杏子は一切兄に明かしていない。到底、この兄の理解の範疇を超えていると思ったから。
それで、土曜の夜、大学から帰宅した直哉には、いきなり『興梠響とはもう二度と会いたくない』と宣言したのだ。
「これだから女学生は理解できない。何が気に食わないって言うんだ? そんな外車で送り迎えされたら、俺だってポーっとなっちゃうぞ?」
「外車がどうしたって?」
「!」
いつの間にそこにいたのだろう?
気づくと、兄妹の背後に五百木帆(いおきかい)がピッタリついて歩いていた。
尤もこの道は帆(かい)にとっても通学路である。そのこと自体、別段不思議はないが。
「正しくはオースチン7さ! 色は真紅だぞ!」
振り返って得意げに声を張り上げる大学生。
中学生は肩掛け鞄を揺らして跳び上がった。
「わぁ! 凄い! 直哉さんが買うの? 僕も乗せてよ!」
「馬鹿言っちゃいけない。僕なんかの手が出るものか!」
昭和九年のこの頃、銀行員の初任給が70円なら、自動車は国産車でおよそ一台1350円である。直哉のぼやきもわかると言うもの。
「友人の話だよ。興梠と言って――」
「兄さん、私、先に行くわね。美弥ちゃんたちが待ってるから」
一目散に駆け出す杏子。
あの夜以来、少年と目を合わすのが嫌だった。
―― 世界で一番汚らわしい生き物……!
この子は知っている。
あの夜、蒼眞(そうま)さんと私の間で何があったか。
蒼眞さんが私に何をしたか。
谷間を分けて深く差し入れられた指。耐えられず漏らした吐息。
自分の内にあんなに暗く深い通路があることを、私はあの夜、教えられたのだ。
あれは何処へ続く通路? 抉(えぐ)られるたび濃くなる蜜の闇の果てに――
―― あ、そこ……
―― ここ? 杏子さん?
―― 私……
でも、それは突然中断された。
迎えに来たこの子の、火を噴くほどの憎悪の眼差しが忘れられない。
でも、あんな目で私を見るってことは――
この子も蒼眞さんと……?
少年が杏子を嫌うように杏子も少年が嫌いだった。今やはっきりとそれを自覚している。
帆と目が会うたびに皮膚がゾワゾワと粟立つ。
嫉妬心という名の魔物に吐息を吹きかけられるせいだ。
逃げるように杏子は兄を残してその場を離れた。
「興梠さんて、この前、直哉さんちに来てたスカした帝大生だろ? へえ! 外車を乗り回してるんだ?」
「僕は見たわけじゃないけど。杏子が土曜日に乗せてもらったそうだ。あいつはいい男だと思うんだけどな? 何故か杏子は気に入らないんだよ。女心はほんと不可解なり、だ」
「不可解でもなんでもないさ」
いとも容易に少年は言ってのけた。
「杏子さんが他の男に目もくれないのは――好きな人がいるからさ! 身もココロも捧げ尽くしちまってるんだ」
「え!?」
目を剥く兄。
「だ、誰だ、そいつは? 俺の知ってる男か? 中井? 神崎? ひょっとして三浦じゃないだろうな?」
少年は笑った。蕾のような唇から細い舌が覗く。
「そんなことよりさ、車の話をしてよ。僕はそっちに興味がある。もっと詳しく教えてほしいな、直哉さん?」
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