第10話

「ち、ちょっと待ってくれ」

 なんだか話が違う。吃驚して興梠(こおろぎ)は遮った。

「どうしたの? 今更、お芝居はやめてください。貴方(あなた)はそのことを溝口(みぞぐち)の奥様に頼まれて――それで、私の元へいらっしゃったんでしょう、探偵さん?」

「いや、違う。僕が来たのはそういうことじゃない」

 流石に慌てて首を振る。

「確かに、溝口朔耶(みぞぐちさくや)の母親は依頼主だが、僕が頼まれたのは朔耶さんの現在の居場所を探し出すことだ」

 小夜子(さよこ)の顔から血の気が引いた。

「何ですって? 今、何と言ったの? 朔耶さんの……居場所?」

「溝口夫人が言うには、朔耶さんは失踪して、現在、所在がつかめないらしい」

「う、そ……」

 手帳を出して日にちを確認しながら興梠は訊いた。

「朔耶さんのお母様の話では、ご子息の朔耶さんからの連絡が途絶えて1週間後に僕の探偵社へやって来られた。貴女(あなた)が朔耶さんと別れたのは、正確にはいつ頃ですか?」

「10日前です」

 婦人の語った、息子と音信不通になった日付と合致する。

「小夜子さん、よろしければその時のことをできる限り詳しく話して頂けませんか?」




「さっきもお話したように、あの丹頂(たんちょう)の話を聞いてから、私、ずっと決めていました。〝その時〟がきたら、きっぱり別れてみせようって」


 顔を上げて娘は話し始めた。


「朔耶さんが愛した鳥なんかに負けられない。私だって、きっぱりと美しい別れ方をしてみせる。最初から身分違いの恋とわかっていたし。

 でも、その分、短い間でも命を賭けて愛し合った、その確かな自信が私にはあります。私はそれだけでいいんです。そうは思っていたのに……」

 小夜子は俯いた。ひっそり笑ったように興梠には思えた。

 悲しい微笑だ。

「それほどの決心をしていたのに、現実は皮肉なものね?」

「というと?」

「私、その肝心な〝別れの日〟を気づかなかったお馬鹿さんなのよ」

「?」

「だって、朔耶さんがあまりにも、いつもどおりだったから……」


 10日前の昼過ぎ。

 前日、〈ダンシング・バア・ミュール〉で特別の貸切パーティがあり、夜明け近くに帰って来た踊り子は熟睡してしまった。

 ふと目を開けると、玄関先に立った恋人の姿が見えた。

 普段どおりの大学へ行く服装。マフラーを巻いて通学用の鞄を抱えている。


「朔耶さんたらね、布団の中の私を振り返って、笑いながら言ったのよ」


 ―― じゃ、また、夜に、会おうな!


「会おうな?」

 腕を組んで聞いていた探偵が怪訝そうに顔を上げた。

「貴方も可笑しいとお思いになる、探偵さん?」

 そんな探偵を見て小夜子は笑った。

「それ、私たちの合言葉。秘密の挨拶なの」

「え?」

「元々、朔耶さんの口癖らしいんだけど」

 こんな場合でさえ、嬉しさを隠しきれないと言うように小夜子の瞳が煌く。

「初めて会った日も、あの人ったら……」


 ―― 会おうな!

 ―― はい?


 春季学祭で賑わう帝大のキャンパス。イチョウ並木の真下。

 溝口朔耶の口から零れたのは…… 


 ―― だから、仕事があるんなら僕は待つよ。

    君のその仕事は何時に終わるの? 

    その後で、会おうな!


「他の言い方だったら私、歯を食いしばってでもお断りしていたはず。現に写真展の会場では、本当はお誘いに乗りたくて堪らない気持ちを必死に堪えたんですもの! それなのに、あの言葉――」

 逆に久我小夜子(くがさよこ)は探偵に聞いて来た。

「可笑しいと思いませんか? 探偵さんも可笑しいと思うでしょう?」

 その日初めて会ったばかりだというのに。しかも全然住む世界が違うのに。

「朔耶さんたら、何の衒(てら)いも、迷いもなく、底抜けの笑顔で言ったんです」


  また、会おうな?


  まるで、10年来の幼馴染のように。家族のように。


  絶対、会おうな?


  会えないなんて事態を微塵も想像出来ない調子で。



 ―― 私が未だにフシギに思うのはそこよ!


 同僚の混血の踊り子も言っていた。

 ああ、これが? 〈魔法の言葉〉だったのだ。

 青年が使った妖術こそ……!


  会おうな?


「私、孤児院で育ったんです。親に捨てられて、物心つくと施設にいました。集団生活ばかりで普通の家庭と言うものを全然知りません」

 だから、と娘は言った。

「だから、他人にそんな風に親しげに言葉をかけてもらったのは初めて。

 それで、つい、その言葉通りに朔耶さんにとって私が〝特別な関係〟〝大切な存在〟……〝本当の家族〟になる夢を見てしまいました」

 眼前の探偵ではなく、自分自身に娘は囁いた。

「ああ? 出会った日がそうだったから、別れの日もまた、こんなにもさり気無い、同じ言葉だったんでしょうね?」


 ―― じゃ、夜に。

    今夜、また、会おうな!


「それっきり朔耶さんは帰って来なかった」

「それっきりって……君は探さなかったの? その後1度でも連絡を取ろうとはしなかったのか?」

 探偵の問いに久我小夜子は頷いた。

「内心、帰って来て欲しいと……帰って来るかも知れないと……微かな期待を抱いて待っていました。でも、一切私からは連絡はしませんでした。だって」

「だって?」

「言ったでしょう。ハナからこれは夢なんだって。やがて、いつかは朔耶さんは実家へ帰って行く。元いた世界に」

 ここで小夜子は鳥の写真へ視線を向けた。一番好きだと言った愛の舞いを舞うそれではなく、大空を飛んでいる方。

「そう、例えて言えば……朔耶さんは〈はぐれ鳥〉のようなものよ。嵐を避けて一時、私の元へ迷い込んだだけ。それを承知してました、私」

 現実に引き戻って、小夜子は震えだした。

 手を握り締めて唇に当てると泣き出した。

「でも、ご実家にも戻っていないなんて……それが本当なら、何処へ行ってしまったんでしょう? 朔耶さん……」 





 アパートの外へ出ると秋の夜は暮れ切って辺りは真っ暗だった。

 墨よりも濃い闇の色。自分の心と同じ色。

「全く、俺は何をやっているんだ……」

 冷静になるために、愛しかけた娘ではなく、自分を取り巻く現実について考えようと興梠は思った。

 久我小夜子の部屋に溝口朔耶はいなかった。他の場所に匿(かくま)っているとも思えない。小夜子が嘘をついているようには見えないから。

 朔耶が実家に戻っていないと知った時の娘のあの驚愕の表情。震えだした細い肩。

 震えだした細い肩。

 小刻みに揺れるあの肩に手を伸ばして支えてやったら、俺は彼女の震えを留めることが出来たろうか?

 そうして、またあの夜のように――


 (未練だな?)


 苦い笑いが込み上げて興梠は声を上げて笑い出した。

 星の廻りと言うやつか?

 どうして、俺はこういつも、自分など愛していない娘を愛してしまうんだろう?

 ……〝愛した〟?


 ―― お互い様よ。


 蘇る美しい娘の残像。

 小夜子はハッキリと言ったではないか。


 ―― 私たちはお互いを利用しただけ。寂しさを埋めるために。

    貴方が愛している人は私じゃありません。


「幸せそうだなあ? 笑いが止まらないのか?」

「?」


  突然、闇の片隅から声がした。


「天国を味わったってわけか? だが、すぐに地獄に送ってやる!」

「誰だ!?」






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