第9話


「ここでよろしかったですか? 着きましたよ?」


 久我小夜子(くがさよこ)のアパート前にタクシーは静かに停車した。


「ありがとう。さあ、小夜子(さよこ)さん」

 興梠(こおろぎ)は促した。

「後日、僕の方から改めて連絡を入れます。その際にきちんと事情をお話します。それでは、僕はこれで――?」

 タクシーに乗っている間、ずっと石のように体を硬くして黙り込んでいた小夜子の手が伸びる。

 チークを求めたあのままに興梠の手を握り締めた。

「一緒に来て」

「え?」

 興梠は耳を疑った。

「一緒に降りて――私の部屋へ来てください」

「いや、しかし、今は」

 訳が分からず逡巡する興梠響(こおろぎひびき)。

「良く考えたら、私に貴方(あなた)を詰(なじ)る権利はなかったのよ」

 掠れた声で小夜子は言う。

「縋(すが)ったのは私だもの。寂しさに耐え切れなくて。探偵さん、貴方が私を利用したように私だって貴方を利用したんです」

「いや、僕は――」

「だから、お互い様よ。それなのに、取り乱して、殴ったりして悪かったわ」

 乱れたままの髪。見開かれた瞳。 

「お詫びに――何でもお話します。貴方のお知りになりたい事は、全て」

 細い指に更に力が籠る。

「だから、どうぞ、このまま私の部屋へいらして、さあ、探偵さん?」

「――」


 これは僥倖(ぎょうこう)なのか?

 それとも、罠なのか?

 奈落が口を開けて俺を待っている……?


「いいとも!」


 興梠は頷(うなず)くやタクシーの座席から小夜子を剥ぎ取った。両腕で抱き上げる。


「キャ?」


 そのままアパートの門を潜り小夜子の部屋まで進む。

「いやだわ、こんな真似……」

 小夜子は頬を染めて抗議した

「これ、花嫁にすることよ?」

「貴方の靴をミュールに置いて来てしまった」

 探偵は淡々と言った。

「これ以上、ダンサーの足を傷つけるわけにはいかないだろう?」





 思いのほか小さな部屋だった。

 六畳に半間の流し。一間の押入れ。それで全て。

 家具は茶箪笥と卓袱(ちゃぶ)台、衣装箪笥。トイレは共同、風呂は無い。つまり――

 こじんまりして、暖かく、居心地がいい。

 混血の娘は〝巣篭もり〟なる言葉を使ったが、言い得て妙だ。

 つくづく興梠は思った。こんな場所に男なら誰だって永久に囚われていたくなる。羽を休めていたくなる。

 溝口朔耶(みぞぐちさくや)だって……


 だが、現実にはその室内に男の姿はなかった。

 隠している、という気配でもない。また、隠れ場所など何処にもない。


「狭くて驚いているのね?」

 コーヒーカップを差し出しながら小夜子が笑った。

「いえ。――美味い!」

 思わず声を上げる。

「ありがとう。本物の豆を挽いてます。コーヒーの味は朔耶さんに教えてもらったのよ」

「――」

 コーヒーの味だけではないだろう?

 朔耶当人の姿は見えなかったがこの小さな部屋中にかつて存在した恋人の影は色濃く残っていた。

「あれは全部、溝口さんの撮ったもの?」

「そうよ」

 また嬉しそうに笑う小夜子。

 部屋の壁の至るところに鳥の写真が飾られている。

 大学で美学を修めた探偵の目はその中の1枚の上で止まった。

 雪原で向かい合う2羽の鳥。愛の舞いを舞っているのだ。

「やあ、丹頂(たんちょう)ですね? 素晴らしいショットだ!」

 仄明るいダンスフロアーの灯り。雪原のようだと思ったっけ。

 跣(はだし)で踊り続けた女の姿が重なって仕方がない。

 一緒に踊っているのは――

 誰だろう?

 

溝口朔耶? 俺?

 馬鹿な。

 俺であるはずがない……


「私も、これが1番好き!」


 探偵の胸を過(よ)ぎる悲しい事実を娘の明るい声がぼやけさせる。  

「何と幸せそうなこと! ね? この2羽、どんなに雪原が輝いていてもお互いの瞳しか見ていないわよ」

 小さく笑った後で、娘は視線を少し上へ向けた。

「でも、朔耶さんはあれが1番好きだって言うのよ」

「?」

 窓の上、天井近くに飾った小ぶりの1枚。

 大空を飛ぶ丹頂の群れが写っている。



 ―― もうっ! また、見てる!


 小夜子はわざと拗(す)ねて見せた。暖かな恋人の腕の中で。

 勿論、本気ではない。あまりに幸せで、ちょっとからかってみたくなっただけ。


 ―― そんなに素敵なの? 私なんかより、あの鳥が?

 ―― フフ。小夜子が1番綺麗だよ。僕を夢中にさせる1番は君だ。

    1番大切なのも小夜子さ。知ってるくせに。


 抱き寄せて口づけする。だから、拗ねる甲斐がある。


 ―― でも、これは知らないだろう?


 再び写真へ目をやると、青年は悪戯っぽく笑った。


 ―― なあに? 何のこと?

 ―― あの写真はね朝鮮半島で撮った。

    日本の丹頂は留鳥だけど大陸の丹頂は渡り鳥だ。

    越冬地で、それこそ身を削って雛を育てる。

    そして、育て上げた若鳥と一緒に3羽で飛び立って行くんだよ。

 ―― 何処へ?

 ―― 故郷のシベリアの地へ。

 ―― まあ、そうなの? 朔耶さんは何でもご存知なのね? 

    そんなこと私、ちっとも知らなかった。

    だめね、女学校も行っていない女は。

 ―― 僕が言いたいのはそんなことじゃない。

    いいかい、この鳥の凄いところはね……


 細い肩を抱き寄せると青年は言った。


 ―― シベリアの地に降り立った時、必ず〝2羽〟になっていることだよ!

 ―― ?

 ―― 丹頂は天空で子別れする。


  地上遥か1万メートルもの空の上で必ず決行される〈子別れ〉。

  命を削って育てた若鳥は飛行中に離脱し、親鳥とは全く違う大地に、独り、降り立つのだ。


 ―― ね? 小夜子、君も思うだろう? 

何と蹶然(けつぜん)として美しい離別……

決別の儀式……別れの形だろう……!


  

    美しい

     別れのかたち



「だからご安心なさってください」

 探偵の前で膝を揃えると久我小夜子は告げた。

「私、朔耶さんとはきっぱりと別れました。その件に関して、溝口家を未来永劫(みらいえいごう)煩わせたり、騒動に巻き込んだりはしません。勿論、金銭的要求も一切いたしません」

「君――」

「誓約書の類(たぐい)をお持ちならこの場で署名・捺印いたします。さあ、お出しになって、探偵さん」

 薄闇の中で女の目が煌いた。

「そして、朔耶さんのお母様にお伝えください。大切な息子さんはお返しいたしました、と」





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