第4話
ジリジリジリ――――
周囲で踊っていた他の客たちがいっせいに駆け出す。
「僕たちも逃げなきゃ――」
それまで柔らかく重ねられていた小夜子(さよこ)の手に力が篭る。力いっぱい引っ張ると、
「こっちよ!」
非常口へ――
と思いきや、客たちは全速力で元のテーブルへと舞い戻っている。
「早く、逃げないと」
「いいから」
「?」
志儀(しぎ)の手を引いて小夜子も興梠(こおろぎ)の横へ飛び込んだ。
ほとんど同時に、入り口のドアが開いて、数人の人影が押し入って来た。
ソフト帽にコート姿のがっちりした体形の一人と、その背後に連なる制服姿の警察官たち。
彼らの凝視する先は中央のダンスフロアー。
だが、既にこの時、そこにはテーブルが並んでいて、杯を掲げるカップルまで座っていた。
「――」
サイレンが消えた店内に低く流れるショパン《即興曲4番》の旋律。
改めて室内をゆっくりと見渡してから、来たとき同様、唐突に一団は去って行った。
「抜き打ち視察よ。いわゆる、非常臨検(ラッフル)……」
可笑しそうに小夜子が肩を揺らす。
「ああやって、いきなりやって来るの。でも、こっちだって見張りを立てているから」
小夜子は説明してくれた。その得意げな笑い方もいいな、と探偵は思う。
「その見張り役がね、下の喫茶店に飛び込んで釦(ボタン)を押すとさっきのサイレンが鳴る仕組みなの。これじゃあちっとも〈抜き打ち〉じゃないわね? もはや〈定期巡回〉だわ」
「吃驚したなあ! いつもこうなの?」
まだ驚きの消えない顔で志儀が訊いた。
「以前はそうでもなかったけれど……ここ最近は頻繁にあるわ。このご時勢に〝男女接近しての舞踏は公序良俗に反する〟ですって」
「ダンスの何処がいけないのさ!」
癖毛の髪に汗を煌めかせて少年は憤慨した。
「ダンスはれっきとしたスポーツだぞ!」
「私もそう思うわ!」
額の汗を人差し指で拭いながら小夜子も笑った。笑いながら興梠に視線を向ける。
「弟さんはとてもダンスがお上手ね? お兄様は――踊らないの?」
「そうそう!」
ニヤニヤして志儀が鸚鵡返しに繰り返す。
「〝お兄様〟は踊らないの?」
シャリー・テンプルを飲み干しながら、ウインクした。
「今夜はもう警官は来そうにないから安心して踊れるよ? 〝お兄様〟?」
「――」
憶えとけよ、この……悪魔たち。
「本当に今日は特別だからね? いつもこうだと思わないでおいてくれたまえ」
日付も変わった濃い闇の中。
〈ダンシング・バア・ミュール〉の裏口に佇む探偵と助手。
11月の夜は流石にしんしんと冷え込んでいる。
「わかってるって!」
白い息を吐いて志儀は言った。
「でも、まさか――興梠さんがあんなにダンスが上手だったとはなあ!」
笑いを噛み殺しながら、
「興梠さんのあのタンゴの足裁きを見たら、ノアローだって惚れ直すよ!」
更に意味深な目配せをひとつ。
「現に……一緒に踊った小夜子さんだって、あれ、まんざらでもなさそうだったぜ?」
「大人をからかうもんじゃない――来たぞ!」
今まさに濃紫(ミュール)色のドアが開いて勤務を終えた踊り子たちが出て来た。中の一人、 店内の衣装とは違って地味な砂色のコート。スカーフで髪を覆っている。
「久我(くが)さん」
「?」
名を呼ばれてギョッとしたように足を止めた。が、待っていた二人の顔を見て笑顔を煌めかす。
「貴方たちなの? 雨田(あめだ)ご兄弟」
探偵と助手は雨田真一(あめだしんいち)・真二(しんじ)兄弟と名乗ったのだ。
雨田兄・興梠はそつなく答えた。
「ぜひご自宅まで送らせてください。素晴らしい今夜の思い出の締め括りに」
「……じゃ、お言葉に甘えて」
興梠は依頼人の溝口(みぞぐち)未亡人から久我小夜子の住居は聞いていた。その住所、番地までを一言一句違えずタクシーの運転手に告げる小夜子だった。
「送ってくださってありがとうございました。私も、今夜はとても楽しかったわ! ぜひ、またお店にいらしてね?」
アパートの玄関前で小夜子は探偵と助手――雨田兄弟に握手の手を差し出した。
「では、おやすみなさい」
クルリと反転して――あのコンチネンタルタンゴの颯爽たるステップで――玄関扉の向こうへ消え去った。
「ほどほどの愛想と完璧なる防御。見事じゃないか!」
待たせてあったタクシーに再び乗り込むと興梠は呟いた。
「で? どう思うの、お兄さん?」
隣で志儀が訊いた。少年は訊き直した。
「ねえ興梠さん? 貴方の目にはどっちに映った? 久我小夜子は天使? それとも悪魔?」
「彼女は……素敵なお嬢さんだよ」
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