第5話

 丘の上の探偵社、瀟洒な洋館の中の事務所。


 普段は依頼人が座るチェスターフィールド調のソファに寝転がるのはパジャマ姿の助手である。こんな風に泊り込むことも多いので自分のパジャマと歯ブラシは探偵社に常備しているのだ。

 寄り添う黒猫の背を撫でながら夢見るような口調でため息を漏らした。

「ああ、今日は人生でそうないアバンチュールな一夜だったなあ!」

 浴室から出て来た探偵――こちらはパジャマ姿でも、上にきっちりとガウンを羽織っている――に目を向けると、

「それで、これからどうするのさ、興梠(こおろぎ)さん? 今後の調査方針は?」

「もう少し踏み込んでみるつもりだ。指し当たっては――明日また会いに行く」

 厳かな面持ちで付け加えた。

「今日よりも早い時間に、だ。おっと、勿論、君は学校へ行くんだよ?」

 釘を刺された志儀(しぎ)、露骨に顔を歪めた。

「チェッ」

 だが、すぐに立ち直ると目を輝かせて質問を浴びせる。

「ねえ? 彼女、自宅のアパートの中に溝口朔耶(みぞぐちさくや)を隠しているんだろうか? 素人の未亡人の執事が見破れないくらい巧妙に、さ。 それとも――」

 探偵に渡されたホットミルクを啜りながら、

「場所を変えて別の処に匿(かくま)ってる可能性だってあるよね?」

「何の為に?」

「それ、本気で訊いてるの?」

 助手は鼻を鳴らした。

「そのくらい僕だってわかるよ! 『愛する人を独り占めしたくて』だ。あんなクソ婆ババアのもとへ返したくなくて……」

 ミルクの泡を鼻の下につけたまま少年はソファに立ち上がると絶叫した。

「あああ! あんな人になら、僕も囚われてみたいな!」

 シャーリー・テンプル(アルコール抜きのカクテル)にして正解だった。

 つくづく探偵は思った。

 これでアルコール入りの本物のカクテルを飲ませたら何を叫び出すかわかったものじゃない。




 物憂く流れるシャンソンの調べ。

 頬杖を突いて酒台(コントワール)に寄りかかっている乙女。

 探偵は思った。

 やあ、ジャンヌ・エビュテルヌがいる……

 《モンマルトルの憂鬱》だな!


「久我(くが)さん?」


「まあ!」

 小夜子(さよこ)は顔を上げた。

「雨田(あめだ)ご兄弟――って、今日は弟さんはいらっしゃらないのね?」

「ええ。今日は僕だけです。だから、ご安心を。ダンスをせがんだりしませんよ」

「あら、私の方が……せがむかもしれなくてよ? あんな風に踊ったの久しぶりだったわ!」

 一旦瞳を閉じてから、長い睫毛を瞬いて、小夜子は興梠を見つめた。

「躍らせて頂いた……というべきかしら? リードがお上手ね、真一さん?」


 妖術的手管(てくだ)に注意すべし。

 青年は刹那に陥落する。

 ジリジリジリ……

 今こそ、鳴り響いているのは警戒のサイレンだ。頭の中だけの。


「安心なさって」


 白い手を差し出しながら小夜子は微笑んだ。

「今日はタンゴなんて躍らせない。チークだけ」

「あの、今日は、僕は、ダンスではなくて……お話がしたいんです」

「まあ! 変なことをおっしゃるのね?」

 クスクスと娘は笑った。

「ダンスをしながらでもお話はできるわ」

 既に二人はダンスフロアーにいた。

 探偵の手をきつく握って放さない白い手。

 滑り出す二人。フロアーには他に3組しか踊っていない。


 〝そのこと〟に探偵はいつ気づいたろう?


 (チークと言ったのに?)


 娘の頬は探偵の頬ではなく胸にある。タンゴを踊った昨日とは違って――

 昨日と違う……身長? 


「君! 小夜子さん?」

「シィ……!」


 人差し指が探偵の唇に押し当てられた。

 久我小夜子(くがさよこ)は跣(はだし)だった。

 ハイヒールをいつの間にか――それがいつなのか、興梠は気づかなかった――脱ぎ捨てていた。だから、彼女の頬が胸にある――

 「黙ってて……」

 硝子(ガラス)の床に揺蕩(たゆと)う仄かな明かりに浮かぶ小さな足。

 雪原を踏んでいるよう。

「ね? 何もおっしゃらないで……このままで……」

 一層強く頬を寄せて、男の胸に深く顔を埋めて女は囁いた。

「喋るなって……『踊りながらでも話が出来る』と言ったのは貴女じゃあないですか?」

 探偵はそう抗弁するのが精一杯だった。

「ひどいな、貴女は?」

 実際は、そんなにひどくない。

 いや、むしろ――幸福だった。

「貴方、真一さん、上背(うわぜい)が同じだわ」

「誰と?」

「私が愛した人と。言わせるのね? 意地悪な方」

「ならば僕も言いますよ」

 興梠は息を吸った。腕の中の甘やかな香り。

「貴女も同じだ」

 頭の位置、肩の幅、薄い腰。1度だけ窓辺で抱きしめた乙女。

 何もかも零れそうだった、あの光満ちた午後……

「誰? 愛した女(ひと)? 言うわね、意地悪な方!」

「でも、もう、いないんですよ。その人は僕を置いて去って行った……」

「私も、よ」

「え?」

「私も、そうだと言ったの。私が愛した人は私を置いて……去って行ってしまいました……」

「!」


 探偵がその日、探偵に戻ったのは僅かにその一瞬だけである。

 調査対象者の発したその一言だけは〝探偵として〟の職業的義務から脳裏に刻んだ。

 だが他は? 


 青年は刹那に陥落する――



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