第2話
「珍しいね? 依頼人が訪れたというのに君が引っ込んでいるとは」
紅茶を下げに来た助手を横目に見て、やや皮肉の篭った口調で探偵は言った。
「僕、ああいうタイプ苦手だ」
ズバリと核心を突く返答。
「父さまの取り巻き連中と同じ匂いがする……」
「ランヴァンのマイ・シン」
即座に香水の名を上げる探偵。言わずもがな、ジョークである。
助手は冷たく笑った。
「あの手のご婦人ときたら何事につけても大袈裟だし、ベタついて五月蝿(うるさ)い……僕の母さまは早くに亡くなったけど、生きていたなら絶対あんな風じゃなかったはずさ!」
「きっと、そうだろうね」
きっと……
頷く探偵自身もまたそう思っている。
お互い母の愛には薄い二人だった。
「朔耶(さくや)さんっていうその息子、居なくなったのも分かる気がする。逃げ出したんだよ、あの五月蝿い母親から」
テーブルの上、紅茶カップの横に残された写真を掬い取って志儀(しぎ)は叫ぶ。
「〈天使〉の下へ!」
「おや? この場に居なかったとはいえ、ちゃんと聞いていたようだな?」
「勿論さ!」
探偵志望の少年としてはそこは抜かりがない。ドアに耳をつけて一部始終しっかりと聞いていた。
写真をステンドグラスの光に翳しながら、宛(さなが)ら賛美歌を歌うごとく助手は言うのだ。
「天使の名は久我小夜子(くがさよこ)。年齢20歳。職業は踊り子……!」
クルリと身を反転させてビューローの前の探偵を見返した。
「で? 早速、偵察に赴くんだろ? 天使の生息地、ダンシング・バアへ!」
K市1番の繁華街、S宮。目抜き通りから1本奥まった処にその店はあった。
近代的なコンクリートの四角いビル。
1階は喫茶店。2階に〈ダンシング・バア・ミュール〉の看板を掲げている。
そのフランス語の洒落た字体の下で興梠(こおろぎ)は助手を爪先から頭の天辺まで眺めた。
場所が場所だけに、ツイードのスーツを着てアスコットタイを巻いた少年はいつもより大人っぽく見えた。探偵自身の方は……
ウェストエンド仕立ての三つ揃え。朱に黄色を挿したネクタイ。
日常的にオシャレなので普段とさほど変わリ映えがしないが。
最後にもう一回、念を押した。
「ねえ、君、フシギ君。言っておくが、今回だけ、これは特別だからね? 何と言っても、君は未成年なんだから」
「わかってるって、興梠さん! それに、これも社会見学、大切な人生勉強さ!」
「……」
狭い階段を登って、ドアを開ける。
入り口からは想像もつかない広々とした空間が目に飛び込んで来た。
窓が塞がれた四角い部屋。
壁に沿って小卓が並び、ざっと見ただけで40人は下らない男女が席を埋めていた。
妙に中央に空間(スペース)がある。
その理由が探偵と助手にもすぐにわかった。
酒場台(コントワール)の奥の蓄音機。断髪のモダンガールが近づいてレコードを取り替える。ルンバのメロディが響きだした。と、即座に、壁際のテーブル席から7、8人が立ち上がる。中央の空いたスペースへ歩を進めると踊りだした。
「なるほど、あそこがダンスフロアか!」
踊り場の床には硝子(ガラス)が嵌め込まれていて、下からの灯りが踊る男女の足元を朧(おぼ)ろに照らし出す。
「オシャレだなあ!」
「ハイ・ボールとシャリー・テンプルを」
やって来たボーイに興梠はオーダーした。
「それから――」
チップを渡すと耳元で何事か囁く。
「畏(かしこま)りました」
一礼してボーイは去って行った。
「えええ? 僕はシャリー・テンプルなの?」
早速不平を言う志儀。
シャリー・テンプルはアルコール抜きのカクテルである。ちなみにその名はアメリカで人気沸騰の名子役から来ている。
「ミルクセーキのほうが良かったかい?」
「子ども扱いはやめてよ! 僕だってギムレットぐらい飲める」
ギムレットはジンベースの辛口、アルコール強度25°を超える本格カクテルだ。
探偵は顔を顰(しか)めた。
「早過ぎるよ」
「お待たせしました。それとも――早過ぎました?」
床の銀河を渡ってやって来たのは悪魔、元へ、天使、元へ、久我小夜子である。
「私を御指名と伺いましたが?」
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