第5話 叔母と僕のどぉずおふ

 初めは、今日はお香が強いな。くらいにしか思わなかった。

 彼女の変化は僅かだったけど。僅かにでも、変化をしていた。


 僕は食事のとき、マイさんと祖母のこと以外は、ちいこさんに何でも話すようになっていた。そのときも、くだらない話をしていたんだと思う。友だちの誰々が何をしたとか、そんな話だったかもしれない。


 ちいこさんはよく笑う人で、その日も始終笑ってくれていた。

 だけど、やっぱりどこかおかしかった。


 変だな、と思っていても、僕は馬鹿で「気のせいかもしれないな」くらいにしか考えなかった。尋ねる隙を与えないように、ちいこさんがしているとも、感じていたのに。


 家に帰り、一人ベッドに入ると、胸騒ぎがした。

 やっぱ、変だ。


 夜中だったけれど、上着を羽織って、部屋を出た。速足で、ちいこさんの部屋の前。電気が点いてる。

 どうしよう。とか一瞬考えたけど、結局勢いで呼び鈴を鳴らした。


「どうしたの?」と驚いた表情で尋ねる彼女に、

「どうしたんですか?」と訊く。

 ちいこさんの白い肌は、眼の周りだけ赤く腫れていた。


「そういうの気をつけたほうがいいよ。女の子は、君が思っているよりも臆病なんだから」

 この時に言われた彼女の助言を、僕は未だに活かしきれていない。ちゃんとこうやって覚えているのに。


 ちいこさんは、いろんな推測を繰り出して僕を心配したが、逆に心配されていることを知って、あたふたしていた。その仕草はとても新鮮で、能天気にも僕は胸をくすぐられた。


 彼女は、どちらかと言えば、明るく活発な女性だ。旅行なんかが好きで、よく日本を飛び出していた。ただし身体はあまり強くないようで、時折、具合悪そうにしていたけれど。


「ヒステリックで神経が細い」だとか、親戚らは言っていたが、そうさせたのは、祖母やあんたらだと、僕は疑わない。


 僕が高校に入ってから睡眠が下手くそになったとき、彼女も不眠症であることを、あっけらかんと告白してくれて、いろいろとお世話になったこともある。


 彼女は僕を部屋に上げると、

「目元が赤いのは、すっぴんだから、化粧水を変えたから」だと言った。でも、眼球まで赤い。

 僕は諭されそうになったが、それとなく彼女の言い分を信じていない素振りをした。

 結局、彼女は泣いていたとは、認めなかったものの、様子がおかしかったことについては、正直に答えてくれた。


 彼女は僕に「私ね、しばらく入院することになると思う」と、告げた。卵巣に腫瘍が見つかり、医者に手術を勧められたと。


 僕の脳内はパニック状態に陥る。


 亡くなった祖父が、癌でやせ細っていく様や、その弱りようを目の当たりにしていたためか、腫瘍という言葉に、その時の光景が蘇った。腫瘍と癌の違いもはっきりしないままに、祖父のことと結びつけていた。


 僕は表面上取り乱さなかったものの、心の中はバタバタだった。けれど、彼女は僕以上の不安を抱えているはずだ。それなのに僕は数時間前、馬鹿みたいな会話しかしていなかった。否、そんなことは重要ではない。


 ちいこさんはどうなる?大丈夫なのか?生きて帰ってこられるの?そもそも手術で完治するもの?腫瘍ってなんだ?どんな病気?今痛い?入院っていつから、どれだけ?無理してない?どうすればいい?

 僕は今、どんな顔をしていればいいんだ?


 いろんな考えがぐるぐる廻って、ベッドで横たわる祖父の姿が思い浮かんだ。そして情けないことに、涙をこぼしてしまっていた。


 不安と心配と、何が何だかわからない感情でいっぱいになって、僕は弱っている彼女に甘えてしまうという愚行を犯した。

 無力で幼い。そんな言葉がまだギリギリ許されることを、知ってか知らずか。


 声を上げて嗚咽するようなものではなく、目尻から頬へ伝うような涙が流れた。それにはさすがに、ちいこさんも慌てた様子だった。

 そらそうだ。

 甥っ子が夜中に突然やってきて、無理やり話を聞き出したと思ったら、今度は急に目の前で涙を流し始めるのだから。


 彼女からは、安心材料となりうる話をいろいろと聞かされ、逆に慰められてしまう。

 腫瘍と言っても悪性とは限らないとか。今のうちに取ってしまえば大丈夫だとか。


 そしてその日はそのまま、どんな流れだったか、ちいこさんの部屋に泊まることになった。その部屋に泊まったのは、後にも先にもその一回だけだったと思う。


 彼女はソファに寝るつもりで僕にベッドを勧めたが、僕はいろいろと都合をつけて、ソファで寝させてもらうことにした。

 電気が消えると、ひたすら沈黙が続いて、まどろみ、眠っていた。


 翌朝早く、キッチンからの気配で目を覚ますと「簡単なものだけど」と、既に朝食が用意されていた。

 味噌汁と白飯に、目玉焼きとレタスとウィンナーといった、オーソドックスなものだったけれど、えらく感激したのを覚えている。


 祖母宅に住まうことになってから、朝に食す習慣が無くなっていたため、胃袋は食糧を欲していなかったけれど、それを口に含むたび、何かが満たされていくのを感じた。

 もちろん、残さずに平らげる。その後、僕は祖母宅に戻り、制服に着替えて登校した。


 その後、ちいこさんから入院先の病院は教えてもらっていない。彼女は人知れず手術を行い、二週間程度の入院を経て、以前と何の変りもない姿で、無事に帰ってきた。


 祖母が見舞いに行った様子は見られなかったので、もしかしたら手術のことも知らないんじゃないかと思っていたけれど、ちいこさんが久しぶりに祖母宅へ顔を出したとき、

「もう大丈夫なんか?」 「うん、平気」 「そうか」のような短な会話が交わされていたので、知ってはいたのかもしれない。

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