第2話 ちいこさん

 ラベンダーの香りがすると、ちいこさんのことを思い出す。まるでパブロフの犬のようで、自分でもちょっと恥ずかしい。


 僕が祖母に虐げられていた頃、近所に叔母のちいこさんが住んでいた。

 ちいこさんは、父の歳の離れた妹で、つまり祖母の娘にあたる。彼女は祖母の家から歩いて数分の距離に住んでいたが、普段はあまり祖母の家に近寄らなかった。ちいこさんも祖母のことが嫌いだったのだ。


 祖母は昔から父だけに愛情を注ぎ、他の娘二人にはきつく当たっていたと、もう一人の叔母から聞いたことがある。けれど、ちいこさんは亡くなった祖父とは親しかったようで、ときどき、祖父の仏壇に線香をあげにくることがあった。そんなとき僕は、挨拶だけ済ませると奥にある自分の部屋に隠れていた。

 ちいこさんは、細くて白くて綺麗な人で。恋愛経験のほとんどなかった僕は、照れていたのだろう。今から考えると、その時の僕は、自意識過剰なただの思春期のガキんちょだった。


 ある晩、悶々としながら部屋で本を読んでいると、ドアをノックする音がした。


「ご飯作ったから、食べない?」


 ちいこさんの声。

 当時、僕は祖母から食事を与えられておらず、親から毎月振り込まれる学校での昼食代だけで生活していた。だから、夜は食べないことが多かったのだけど、ちいこさんがいるときは違った。ちいこさんは、晩御飯を作ってくれるから。


「あっ、はい……」


 僕は一オクターブくらい高い声で返事をして、リビングへ向かう。その日、祖母は自治会か何かの集まりで、家にいなかった。必然的にちいこさんと二人きりになる。

 僕は恥ずかしくなってしまい、目を合わすこともできない。テーブルの上には、ミートソーススパゲティが置かれていた。


「君さ」

 ちいこさんがつぶやくように、尋ねる。


「はいっ」

 僕はテレビを見ながらパスタを頬張るも、味も内容も頭に入ってこない。


「いつもちゃんとご飯食べてる?」

「いえっ、あ、あの……は、はい」僕はどもる。

「ちょっと痩せすぎだよ」

「ああ、そうなんですよ。いくら食べても太らなくて……」


 ちいこさんの視線を感じる。

 彼女は真っ直ぐに僕を見つめていた。まるで、悪戯をした子どもを叱るような目で。

 目が合い、僕は咄嗟に目を泳がせるも、また目が合った。


「成長期ってうらやましいわね」

 ちいこさんがそう言ったとき、僕はなぜかほっとしていた。


「ちいこさんも十分細いですよ」

「そうでも無いよ、意外と肉が付いているのよ」

 そんな会話をしながら、その日はちいこさんとの食事を終えた。



 ちいこさんとの晩餐から、三日くらい経った日。部活帰りにコンビニで立ち読みしていたとき、スマートファンに着信があった。

 見ると、ちいこさんの名前がディスプレイに表示されている。祖母への用事か何かだとい思って、僕は通話ボタンに触れた。


「今日、うちで晩御飯食べていったら?」


 ちいこさんは、いつもと変わらない声色で言う。


「え、あ、はい……いいんですか?」


 僕は突然のお誘いに戸惑いながらも、そう返した。


「もちろん。あ、今どこ?外?」

「えっと、駅前のローソンです」


 別に悪いことをしていないのに、僕は少しだけ周囲を気にした。誰もこちらなど向いていない。


「おっけー。じゃあ待ってるねー」


 そんな調子で、電話は切れた。


 おっけー。は、ちいこさんの口癖みたいなもので、喉にテープが埋め込まれているんじゃないかと思うほど、いつも同じトーンで、おっけー。と言う。

 僕は何だか不思議な気分になりながらも、彼女のマンションへと向かった。


 ちいこさんは、1DKのマンションに住んでいた。過去にも何度か祖母に頼まれて、物を受け取りに行ったり、逆に届けに行ったりしたことはあったが、食事の誘いはその時が初めてだった。

 マンション三階にある彼女の部屋にたどり着くと、僕は、呼吸を整えてチャイムを鳴らした。間もなく扉が開き、ちいこさんが顔を出す。


「いらっしゃい」


 彼女に促されて中に入り、ダイニングへと移動した。


「お邪魔します」


 そう言って、木製のテーブルに備わった椅子を引いて腰かける。

 ちいこさんの部屋は、いつもラベンダーの香りがした。お香を焚いているのを何度か見たことがある。ラベンダーの香りには、安眠効果があるのだとか。


「ちょっと待っててね。もうすぐ出来上がるから」


 髪を束ねた後姿に、もじもじする。ちいこさんは昔レストランでアルバイトをしていたこともあり、料理の腕はとても良かった。


 やがて運ばれてきた料理が何だったか、今や忘れてしまったが、一品料理でないことは間違いない。僕はそれをぺろりと平らげる。


「もうお腹いっぱい。御馳走様でした」

「やっぱり男の子は良く食べるねー」

「すいません。ありがとうございました」

「いいのよ。またいつでもおいで」


 初めのころは、その程度の会話で帰っていたと思う。それから僕は、ちいこさんに誘われ、頻繁に彼女の部屋を訪れるようになった。

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