第40話
■5
白々あける朝の中。彼女はただ立っていた。
しかしその姿を見るものはいない。人が発する気配――つまりほんの微かな呼吸音、体温、衣擦れ音、あるいはそこを流れる大気。彼女はそれを、極限にまで無にできた。
仮に白い朝陽が差し込み始めていようとも、気配を断ち、居場所を厳選すれば誰に見つかることもない。彼女はそうした、内臓の動きまで徹底的に制御する術を身に付けて、それを全て断絶のために使い続けてきた。
……まあ結局のところ、ずっと家の中に引きこもっているという方法で、断絶の極地に達していたのだが。
ともかくそのせいで、彼女はずっとひとりだった。最後に声を発したのは何年前かと考えることがある。記憶に残っているものは見つからなかったので、物心がつく前だという結論になったが。
最後に日中の景色を見たのはいつだろうとも考える。これも同じような結論に至るが、記憶だけはあった。太陽の光、反射、生み出される影、熱量、人体や土地への影響など――そういった知識を教え込まれたことがあるはずだ。だから今まで、それらを理解できていた。
しかし不思議なことに、町の景色の記憶はなかった。屋根伝いに駆ける夜の街並みですら、全体を見渡したことはない。
だから今、こうして高所から町を見下ろすのは、初めてのことと言えた。
あまりに新鮮で、鮮烈で、彼女の奥底にぞくぞくとした恐怖とも歓喜ともつかない感情が湧き上がってくる。何か背徳的な、あるいは冒涜的な、人間には秘匿とされる禁忌を犯しているような気持ちだった。
ひとつ問題があるとすれば――そこが彼女の居住する町ではなく、初めて足を踏み入れた漁師町だということか。
しかし彼女にとっては、むしろその方が重要だったかもしれない。足を踏み入れたのは初めてだが、訪れるのは初めてではない――夢想の中で、描いたことがある。
漁師町、グアデン。そこは彼女が夢想に描いたものと似通っていた。港があり、宿があり、大通りの先には町長の邸宅がある。そして彼女の立つ二階建ての石造民家の隣には――白い箱のような、自警団詰め所が建っていた。
思った通りの姿である。彼女はそれを見下ろしながら、透視でも使えたかのような愉悦を感じた。
ただ――違う部分も当然、ある。宿は思ったほど海に近くはなかったし、詰め所が予想したより少し小さい。描かれた模様も想像とは異なっていた。そして何より……
「おい……本当に今度の自警団は大丈夫なのか?」
自警団の前を通り過ぎていく人々が、その詰め所を横目に見ながら呟くのが聞こえてくる。彼らの声は一様に、夜の海のように暗く、沈んでいた。
「聞いたところじゃ、隣町から来た奴らしいぞ」
「余計に信用はできねえよ」
「団長だけじゃなく、全員入れ替えるべきなんだよ。まだ誰が犯人かはわかってないんだろ?」
「どうせ捕まらりゃしねえよ。町長とも繋がってるんだろう」
この町には、疑心が満ちていた。
苛立ちにまみれ、投げやりな嫌疑を抱き、諦観の眼差しで白い箱のような建物を一瞥する。倦怠感に溢れ、強い反発を秘めながら、冷ややかな目で凍ったように動かない。そんな気配に包まれていたのだ――
「外部から誰かが調査しにでも来なけりゃ、何も露呈しないさ」
「懲りずに何度も来てくれる交易船でもいれば、それでもいいんだけどな」
それを聞いて……彼女は俯くと、踵を返した。音もなく屋根から屋根へと飛び移り、朝の中に潜んだまま町の外に出る。
街道から外れた林の中に入り込んで、彼女は立ち止まった。そこでちらりと振り返る。それすらも何か悪いことをするような気持ちではあったが。
漁師町グアデン。自警団の手引きする盗賊に襲われた町。それは現実には何一つ解決しないまま、暗闇に消えていったのだろう……
――彼女はまた地を蹴った。歓喜に数倍する居た堪れなさで、町から遠ざかる。
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