第15話
「…………」
無言はどちらが発したものかわからない。あるいはふたりともが。同時に総毛立つ驚愕と、戦慄を覚えて言葉を失っていた。
像の脇に立つ、町の案内看板。その下に……黒い影がうずくまっていた。迷い込んだ動物などではあり得ない。四肢を折り畳んで座り込む、人間の輪郭をした影だった。
顔は見えない、声も聞こえない。暗闇に沈み込むように、その場に存在している。昼間の調査で見逃したなどということはあり得ず、夜の間にどこからかやって来たのだろう。
通常ならば住民か、あるいはミゴペインのような旅人だと考えるところだが……少年と研究者は一度だけ顔を合わせると、無言で慎重に歩み寄っていった。そしてハーリットが、ランプの明かりが届くギリギリの距離で、その炎を影に向ける。
瞬間――
「ォォオオオオオ!」
泥沼が沸騰するような咆哮をあげて、影は突然に飛びかかってきた!
「ッチ!」
舌打ちと共に研究者と突き飛ばし、ハーリットもまたその場から飛び退く。影は一瞬前までハーリットのいた場所に着地し、四つんばいになってから、ゆっくりと立ち上がる。
改めてランプの炎をかざしてみると、それはやはり人間だった。ボロボロの作業着を着た、二十を過ぎた頃だろう若い男のように見える。しかし明らかに――生きてはいなかった。
真っ先に感じたのは腐敗臭で、最初に飛び退くことができたのも、その悪臭を感じたおかげだった。そしてランプに照らされた顔も異常極まりない。炎の赤に混じっても不健康で、明らかに血の巡っていない青白い肌をしている。
そもそも皮膚がところどころ破けて、腐敗した肉が見えているが、当人は痛がる素振りも見せていない。目は虚ろで、焦点が定まっていなかった。それでも正確にこちらを見つけてきたのは、視力以外で感知しているためか。
いずれにせよ――ゾンビの生態など、わかるはずもない。
「まさか、本当に……!」
駆け寄ってきた研究者が信じがたく声を上げる。その感想はハーリットも同様だった。
しかし今は、それに驚愕している暇もない。ゾンビは再び、倒れ込むような動きで襲い掛かってくる。ハーリットは剣を抜き――
「……くそッ!」
毒づきながら斬るのを躊躇い、剣の腹で男を叩いた。ボロボロになっている作業着の下でぐちゃりと嫌な音がして、生々しい感触が少年の手に伝わってくる。
それは不愉快極まりなく、様々な感情から吐き気を催す感触だったが……今はそれにも構っていられなかった。
「これは……」
腹部を殴打され、弾き飛ばされ、転がっていった男と入れ替わるように、通りの奥から次々と人影が現れていた。
ォォォオオオ……!
上空を吹きすさぶ風のように。聞こえるのはそれらの呻りだった。ざっと見て三十ほどだろうか。老若男女、様々な人間――しかし全員が同じく、這いずり回る死者と成り果てている。
「数が多い、一度退かないと!」
「あ、ああ――」
ハーリットの言葉に、研究者も頷きかけた。しかしそこで、ハッと思い出したように言う。
「そうだ、宿にまだ彼女が残っている。知らせなければ!」
「それは……」
反駁しかける。が、ハーリットはそれをあえて途中で止めて、研究者の言葉に同意した。どのみち、逃げ場は宿に向かう通りしか残っていない。他の通りからは続々とゾンビたちが集結しつつあった。
「ハーリットくん、早く!」
その声に促されて、ふたりは踵を返して東の通りを駆け戻っていった。
幸いにしてゾンビたちは走って追いかけたりはしてこない。それでも迫り来る気配は感じられたが、振り返るくらいの余裕はあった。
そうするうち、少年の手にしたランプの炎が激しく揺れながら道を照らし、やがて停泊していた宿を見つけさせる。そうでなくとも、唯一明かりの灯る建物ではあった。
ふたりはその中に飛び込むと、軋む床板も気にせず階段を駆け上がり、部屋の扉を引き開けた。
「え? どうしたの、慌てて」
そこには女冒険者が、別れた時と変わらないままベッドの上に座っていた。きょとんとした顔をランプの火に照らしながら、のんきな声を投げかけてくる。
対してアルフレドは息を切らし、緊迫しながら早口に。
「危険なことが起きた。すぐにここから離れなければならない」
「危険なこと?」
「いいから、早く来るんだ!」
詳しく話す手間を惜しみ、研究者はミゴペインの手を取った。さらに残る手でランプを掴むと、すぐに身を翻して部屋を後にする。ハーリットもそれを追いかけ、階段を飛び降りて宿の外に出た。
アルフレドは通りに出たところで、どこへ向かえばいいかと左右を見回していた。通りを東に向かえば街道に出られるはずだが――
「ォォォオオ……!」
案の定と言うべきか。東側には先回りをするように、ゾンビが群れを成していた。先ほど見たものよりは数が少ない。しかしそれでも十は下らない。ハーリットひとりならば突っ切ることはできるだろうが、アルフレドまでそうできるかはわからなかった。
「このままだと、町の出入り口まで封鎖されていそうだな……」
アルフレドはそう見立てて、絶望的に苦笑した。その後ろで、女冒険者が肩を縮こまらせて俯いている。そのことに気付き、アルフレドが肩越しに声をかける。
「状況は見ての通り、信じがたいことだがゾンビと呼ばれる類が溢れているようだ。しかし心配することはない。町は広い。逃げ出す手段はいくらでも――」
と、そこまで言った時だった。
ミゴペインは突然、掴まれたままの研究者の腕を引き寄せた。そのまま彼女は男の背中に張り付き、腰に手を回してしがみつく。
「な、何をするんだ!?」
研究者は抱きつかれたまま、悲鳴のような声を上げた――歓喜や照れなどではない。どちらかといえば、恐怖だったろう。
その理由は他でもなく、女の力が異様なほど強く、しがみついたアルフレドの腰をぎちぎちと引き搾っているからだった。
「ぅ、ぐあぅ……!」
腹部が千切れるほどに締め付けられて、呼吸が困難になっていく研究者。もがこうとするがそれも叶わず、ただランプの火だけが揺れる。
それを見ながら、ミゴペインは笑っていた。アルフレドには見えなかっただろうが、凄絶な笑みを作り、そして同時に大きく口を開ける。滴る体液が犬歯を光らせ、それを研究者の肩へと――突き刺そうとした瞬間、女の身体は強引に引き剥がされた。そして剣の柄で腹を一撃させて、後ろ向きに弾き飛ばされる。
ごろごろと後ろ向きに転がって、どうにか四つんばいの格好で止まった時。彼女が見たのは他でもなく、剣を構えた少年冒険者の姿だった。
ハーリットは視線で相手を牽制しながら、肩をすくめるように研究者に言う。
「だから言ったんですよ、怪しいって」
「はぁ、はぁ……まさか彼女も、ゾンビだったとはな」
解放された腹を押さえ、息を整えようとするアルフレド。そうしながら彼も、女冒険者の方に視線を向けた。
ゆっくりと起き上がるミゴペイン。その顔にはもはや表情はなく、焦点の定まらない瞳がぐらぐらと揺れ動いているだけだった。ボロボロの身体は、ゾンビだとすればそれらしい姿かもしれない。
「しかし、どうする。彼女までもゾンビならば、敵がひとり増えたことになる」
「逃げ出す手段はいくらでもある、って言ってたじゃないですか」
「方便だ」
あっさりと言って、肩を上下させる研究者。ハーリットはやや呆れた視線を向けたが――そんな話をする間にも、ゾンビたちは迫ってきていた。
東側は完全に包囲され、広場の方からも、まるでミゴペインを親玉とするように集結している。
「私は多くの魔物を研究してきたが、ゾンビなどは見たことがない。死者への対処法もわからない。思いつけるのは、逃げ回りながら対策を練るくらいだ」
「僕も同じくらいの考えしか持っていません」
言い合って、ふたりは「ならば」と頷き合った。そして共にゾンビたちを牽制しながら、またその緊張が弾けないようにと、じりじり建物の壁にまで後退していき――
「今は、逃げるしかあるまい!」
アルフレドの言葉と共に、ふたりは同時に身を翻した。宿の壁を伝うように、建物と建物の隙間に逃げ込んだ。
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