第10話
――小説の舞台と同じく、シアの住む町の頭上にも黒い雲がかかっており、昼だというのに不気味な薄暗さを作り出していた。感受性の高い者ならばあるいはそれがなんらかの不吉な暗示であり、胸のむかつく恐るべき邪悪が世界を包もうとしている姿に他ならないと考えたかもしれない。もちろんそれは錯覚や悲観主義による奔放な妄想でしかないのだが、シアはどちらかといえばそういった類の、恐怖を自ら増幅させる悲観的な考えの持ち主だった。ただ幸いなことに、彼女はそうした外界の薄暗さに気付くことがないのだ。
というのも彼女の住まう家、そして彼女が主に生活する屋根裏部屋は例え晴天であろうと、常人からすれば外界よりも遥かに恐ろしく、奥底には魔物の存在があるのだと信じきってしまうような暗闇に包まれ続けていた。
もちろん、実際に魔物が家の中にいるはずもない。シアは頭に地図を広げると、そこへ資料で得た知識による魔物の生息域を書き加えていった。それは自らの住むコールウッド国内のみならず、それを含むライリアル大陸と呼ばれる人間の繁栄する土地全土に散らばっており、魔物、あるいはモンスターと呼ばれる獰猛な生物群がいることは、この大陸において秘密でもなんでもなかった。これは例えば密林に人を絞め殺す大蛇がいるだとか、砂漠に毒の尻尾を持つ節足動物がいるだとか、あるいは海に人間をも捕食する魚がいるだとか、そういったものと同じ扱いをされている。つまり繁栄を続けた人間にとっては、猛獣や害獣と同じ括りで見ることができるような生物ということだ。
それでもなお彼らが『魔物』として区別されるのは、彼らが多種族への明確な敵意を持っているからに他ならない。密林の大蛇は蛙のような魔物によって腹を破られ、砂漠には魔物が千切り捨てた毒の尻尾が散乱している。沖合いを走る船に突如として獰猛な巨大魚が打ち上げられた時には、近くに魔物がいることを確信しなければならない。まして彼らは敵対する種族への殺戮は捕食のためではなく、純粋な悪意から生まれるものであり、知恵を持ってそうした残虐行為を行ってくる。細切れにされた蛇が発見されたこともあるし、魚が見せしめのように近隣の木の枝に吊るされていたこともあった。
そうした結果、彼らはその獰猛さゆえに繁殖を妨げられながらも、決して尽きることなく大陸の各地に点在していた。無論のこと人間を嫌う種族も存在するが、それらは発見されるたびに王国軍、あるいは混成軍によって討伐され、大きな被害をもたらすことはそう多くない。
そのためシアが今回舞台にしたエンダストリでの魔物襲撃も、当初は比較的大きな事件として扱われていたが、たまたま魔物の行路と重なってしまっただけの不幸な事件という決着を得たことで収束していき、最近になって『死者が徘徊する』という噂が持ち上がらなければ、そのまま忘れられていたかもしれなかった。
とはいえその噂は大衆にとってみれば、パターン化している怪談話の舞台を近年のそれらしいものに変えただけという印象が拭えず、それほど大きく話題に上っているわけでもないのだが、そうした評価をされてしまうのは無理からぬことだろう。魔物はどれほど恐ろしく計り知れない力を持っていたとしても凶暴で知恵をつけた『生物』であるが、ゴーストやゾンビといったアンデッドは存在し得ず、そんなものは作り話の中だけだ、というのは、シアが一般的な人々と共有できる数少ない認識のひとつだった。
ただ、シアは外界の不気味な暗さとは別に、そういった凡庸であるはずの怪談話の中になんらかの怪奇的、あるいは冒涜的な途方もない悪辣な思想が渦巻いているような気がしてならなかった。それは紛れもなく錯覚であり、小説に囚われる余りの譫妄でしかないとわかりきっていたが、彼女はそれを完全に振り切ることができず、それこそ悪霊に足を引きずられている思いでいた。
しかしそうした不可解なほどの恐るべき空想を抱いてしまう理由の一つを、シアは自ら思いつくことが可能だった。さらに言うのであれば、今回の事件を題材に取った最も根幹の理由と言えるものがそれであり、またそれこそが自身の心底に暗澹たる恐怖を植え付ける原因となっていることも、シアは自覚しないわけにはいかなかった。
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