禁忌 3

 夏場には鬱陶しくてたまらない蟲っているだろう? 小さくて羽音がやかましく刺されたら痒いあいつ。俺には片腕しかないものだからあいつを見かけたら手で潰さずにすぐさま殺虫剤をシュッと一発浴びせてやっつけているわけなのだが、現在法定速度を軽く超える速度で走っている車の屋根の部分に乗っかっている『あいつ』に殺虫剤は効きそうにないと思った。心から。


 屋根のレプリカは俺が人通りの多い道路に出るとすぐさま飛び立ち空から追跡を行う。そしてまたとんでもないスピードで屋根に張り付いたと思うとあの恐ろしい攻撃が繰り出される。


 「うおお!? くっ」


 屋根を突き破って吸血の際の針のような口を突き刺してくるのだ。俺はこの日まで『蚊』をここまで恐ろしいとは思ったことがなかった。


 ハンドルを瞬時に左右に切って振り落とす。レプリカは自身の身体が路面に接触する前に体勢を立て直して再び屋根にしがみつく。


  蚊に刺された際の痒みは蚊の持つ麻酔によるものらしい。しかし、上の蚊は麻酔などほとんど使わずに刺してくるためとてつもない痛みが痒みに勝ってしまう。上手いこと避け続けてはいるが、頭に当たった時にはそれでアウトだ。そうでなくともすこしずつ血が吸われているためこのままでは俺が先に力尽きるのは目に見えているのかもしれない。じわじわとせりあがる痒みも鬱陶しい。


 「おまわりからの差し金か……?」


 俺は所詮レプリカの偽物だ。レプリカ相手に本物というのもおかしな表現だが本物よりかなり弱い。誠君と梓ちゃんに勝てたのは運みたいなものだったからな。今も運に任せて何とかなるのを待ってみるか……そんなに甘いわけはないか。

 今は互いに不利でありながら俺には有利な点がある。それは互いの状況が明確にわからないことだ。そして俺に有利な点としてもう一つはレプリカの偽物であることを知られていないことがある。


 だから蚊には俺が何をするのかわからないはずだし、何をしてきていたのかもわからないはずだ。


 俺は屋根を突き破って伸びてきた針にできる限りの毒を塗り付けた。ハンドルを抑える手がないので少し恐怖感はあったが、そんな情けないことを言っている場合ではない。

 それでも再び針は屋根を貫き、俺の左肩に深々と刺さった。しかし、これでいい。これで大量に毒を流し込んでやる。


 それからは根競べだった。俺の血が空っぽになるまで吸われるのが先か、蚊に毒が回るのが先か。普通に考えれば俺の力の元になったレプリカの少しの力しかない俺の毒でレプリカを瞬時に黙らせることは多分無理だ。それに引き換え人間サイズの蚊が一度に血を吸う量は半端なものではない。本気で吸われたら一瞬で干物になるかもしれないのに、上の蚊は何故かそれをしない。相手を痛めつけるSな性癖でも持っているのか知らないが、それが運を分けることになる。


 針がゆっくりと肩から抜かれた。勝ったのは俺の方みたいだ。とはいえこの出血では生身の人間だったら致死量ってヤツだろう。人間じゃなくてよかったと思った。心から。


 フロントガラスの向こうに蚊のレプリカがフラフラと飛び去って行く様が見えた。レプリカの回復力なら数分後にまた襲い掛かってくるかもしれない。おそらく全力で。それよりもある意味怖いのはヤツが警察の手先であることだ。このまま俺を襲わずに俺のことを警察……というより薬の所持者に伝えられることがマズイ。いや、仮にヤツが本当に警察の手先ならヤツを始末しても怪しまれるのは同じか。


 「先が思いやられるわ……こりゃ」


 ボロボロになった車を止め、光の当たらない夜空でもがく巨大な蚊を眺めながらそっと呟いた。










 蚊がもがき苦しむ夜空に近づくため、側に会ったビルの屋上まで少し休憩をしてからやってきた。ちょうどその場には蜘蛛の姿の梓ちゃんがいた。


 「やあ、奇遇だね」


 「何があったんですか?」


 「これから話す。ここ、どう歩いたらいい?」


 「縦の糸を踏んで歩いてください。横のはくっつきます」


 俺の質問に彼女は事務的に応じる。


 「チャンスだよ……俺を殺さないの?」


 「……わたしは人殺しじゃない」


 「そっか」


 俺は車で闇雲に逃げていたわけじゃなかった。梓ちゃんの狩場へ一直線に向かっていたのだ。それでまんまとヤツは空中に仕掛けられていた蜘蛛の巣に引っかかったというわけだ。


 ヤツの側に寄ると、既に変身が解けて人間の姿へと戻っていた。俺よりは年上だが若い女だった。全裸で糸に張り付かれている姿は正直興奮する。ていうかしている。苦しそうな表情から毒がまだ少し効いているみたいだということがわかる。よく見ると身体のいたるところに黒ずんだ痣のようなものが見える。多くは毒によるものだろうが、その中でも特に目を引いたのが鎖骨の少し下辺りの歪な痣だ。その痣によって化け物の姿に変わるのだろう。


 「何故俺を殺そうとした?」


 「……」


 女は答えない。緊張した眼差しでこちらを見据えるだけだ。

 俺は彼女の首筋に指を突き立て、毒を少しだけ流した。


 「んぐッ!」


 「何故俺を殺そうとした?」


 彼女の緊張した眼差しは怯えを含んだものへと変わった。


 「め、命令されたの」


 「警察にか?ん?」


 「ッ!?」


 当たりだな。いきなり図星を突かれたことで表情がすべてを語ってくれたよ。


 「あなたの名前は何だ?」


 「ヒガキ……ジュン」


 「ヒガキさんか、漢字は後で教えてもらうとしよう。OK、じゃあヒガキさん、俺はあなたを無事に帰すわけにはいかないということはわかるな?」


 「う……うん」


 「かといって俺はレプリカを殺す手段も持ち合わせているわけでもないし、あまりに残酷なことはしたくない。それにヒガキさんには利用価値がある」


 俺は梓ちゃんに彼女を糸で拘束するよう頼み、下に止めてある車まで運ばせた。ヒガキさんをどうするのか、どうやって利用していくかはまだ考えていない。これからも俺に刺客がやってくるのかどうかもわからないが、可能性はあるかもしれない。

 そういえばこの街にはハンターとかいうレプリカを狩り回っているヤツがいるそうだったな。ヒガキさんが戻らないのは上手いことそいつらのせいになることも考えられる。なんてのは甘えだろうか。


 「私をどこへ連れていくつもりなの?」


 「しゃべるな」


 車にヒガキさんだけを乗せて梓ちゃんにはあと三日が経てばしばらく人は襲わなくてもいいとだけ言って車を走らせた。このタイミングで人を襲う動きがなくなったことを知られたら怪しまれるかもしれないと思ったので念のためだ。


 「ヒガキさん、あなた達レプリカは何らかの方法で行動を制限されていたりしていませんか?」


 「……だとしたら何なの?」


 「自由になりたいとは思いませんか?」


 「私は自由よ。君にはわからないでしょうけどね」


 「本当に?」


 「本当よ」


 嘘ではなさそうだ。こういうの厄介だから嫌いなんだ。


 「君、これから無事に生活できないと思うわよ」


 「……でしょうね」

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