エゴイストの愛 2


 沢木先輩と宮島さんが別れてから六日が経ち、明日は夏川さんと沢木先輩のデートの日となった。

 沢木先輩が別れてから次の学校の時、夏川さんは朝一番に沢木先輩の下駄箱にラブレターを入れて、ベタではあるけれど体育館裏に先輩を呼び出して告白した。

 「これ以上ないレベルの屈辱だ」と、その日の昼休みに夏川さんはがっくりとうなだれてそう言っていた。ちなみにその時にもう一つ聞いた事があって、宮島さんは今日も学校に来ていなかったと夏川さんはそう言った。

 まあ、無理もないんじゃないかとは思った。

 フラれた痛みと言うのはきっと僕が思っている以上に大きなものなんだろう。まあ、実際はどうか知らないが。


 「ってことで血液が酸素を脳みそに運搬する訳で……っておーい、なーにボケッとしてんだよ木野くーん」


 「あ、すいません」 


 いつの間にか考えていることがフラれた痛みはどんなものかという事になっていたことを先生に注意されることで気付いた。

 僕は今、放課後に僕一人だけ補習を受けるように言われてそれを受けていた。

 補習ははっきり言って嫌いだ。

 理由は至極単純。面倒だからだ。

 とはいえ、露骨に「あなたの行う補習授業は嫌いです」というような態度をするのは失礼だという事はわかっている。わかってはいるが、嫌いとまではいかなくても面倒だと感じている事はどうしようもない事実なのだ。


 「ははーん、今君、先生とやる補習が面倒くさいからさっさと帰りたいって思ってるだろ」


 表情や態度に表していたつもりはなかったが、ズバリと頭の中の事を当てられてしまった。

 「そんなことないです」と口先では一応否定しておくが、この先生には言及されてしまう。


 「いーや、絶対思ってたもんね。そのツラ見てたらわかるよ。てゆーか君相当わかりやすい顔してるから」


 「クラスのみんなには大抵無表情だねとしか言われないんですけど」


 「目は口ほどに物を言うーってね。ははは」


 そう言っておどけたように笑う、担当教科は生物の、ジャージの上に白衣といった奇抜な格好の新人教師「百瀬凪」は黒板に文字を書きながら続ける。


 「ま、補習を面倒くさいと思うのは仕方ないさ。先生も嫌いだ。そんなバカしかやらされない事したことないけど嫌いだね。だからさっさと帰れるようにはしてやるからもう少し我慢してくれ。こうなったのも木野君が赤点取るのが悪い」


 教師ともあろうものがそんな言い方をして大丈夫なのかと思ったが、言っていることは大体事実ではあるので逆らえない、が。


 「他に赤点を取った人もいますよね? なんで今日は僕一人だけなんです?」


 「ごもっともな質問だね」


 百瀬先生は短くなったチョークを持つ手を止めて僕の方に体を向けて「えーとね……」と置いてから話し始めた。


 「なんつーか、先生のワガママかな。本当はF組の夏川君も一緒に呼んどいたはずなんだけどね」


 「夏川さんも赤点だったんですか?」


 「いや、赤点は軽く回避されたよ。夏川君にはサボりが重なって単位がヤバイって理由つけて呼び出しといたが、こんなに待っても来ないとなるとあの子またすっぽかしやがったなこりゃ」


 「ったくホントに困った子だぜ」と、頭を掻いていかにも困っているようなポーズをする。


 「おっと、話を戻そうか。今回の補習で君と夏川君だけ呼んだ理由は単純に君達に興味が沸いてね。それで少し話をしたかったのさ」


 不敵な笑みを浮かべて言う。

 その笑みはニヤついているだけとも言えるが、よくわからないが、なんだか不快な印象を受けた。


 「興味……ですか?」


 僕は警戒気味にそう言った。

 もしかすると僕らのやろうとしている事やレプリカについての事を追及されるような気がしたからだ。


 「いやね、この前ちらっと見ただけなんだけどさー、君らって……もしかして」


 百瀬先生が声を低くして言うせいか、奇妙な緊張感が僕を襲う。


 「な、なんでしょうか……?」


 「ひょっとするともしかして…………君ら付き合ってるのかい?」


 「へ?」


 拍子抜け……ではあったが、恥ずかしいという感情より先に、僕と夏川さんのレプリカについての会話が聞かれていないかという不安が先立った。


 「別にそんな関係じゃないですよ」


 「んん~ホントかなぁ?」


 心底楽しそうな百瀬先生の表情に少しだけ嫌だなと思う。

 こういう人間の事は僕は苦手なのかもしれない。


 「本当ですって」


 「でもさでもさ、最近よく放課後に屋上で一緒にいるでしょ? あれはどう説明すんのさ」


 何がこの前ちらっと見ただけだ。

 僕は不愉快な気持ちを隠しきれなかった。


 「今夏川さんは他の人と付き合っ」


 しまった。

 ついうっかり夏川さんが今は沢木先輩と上っ面だけだけど付き合っているという事を話してしまうところだった。


 「なに! やっぱ誰かと付き合ってはいたのか」


 「いや、それは違うんです。なんというか……僕以外の他の人と付き合う方がずっと似合うんじゃないかなーって」


 苦し紛れの言い訳ではあるが事実だ。

 実際のところ、僕は夏川さんはとても綺麗だとは思うけれど、今まで一度も彼女の事を好きだと思ったことはない。


 「へえ、じゃあ夏川君が誰と付き合うか当ててやろうか」


 「この場合、当てると言うより予言とかじゃないんですか?」


 「細かい事は気にするなよ。そんな性格はモテないよ。えーとそうだなぁ……夏川君の事だから歳上の三年生と付き合う!」


 ずいぶんとアバウトだなと思ったが、実際今のところは当たっている。


 「その中でも特にイケメンな……パンダの沢木君……じゃ、ないのかな?」


 百瀬先生は僕に確認するような口調で言った。図星だろう? と言わんばかりの。

 この時、僕は思っている事を表情に出さないようにするので精一杯だった。

 美男美女という点ではその考えに行き着く事はよくあるのだろう。

 だが、その偶然が正解してしまっているとなると、僕は百瀬先生への疑いを持たずにはいられない。百瀬先生が僕らのやろうとしている事を知っているのかもしれないという疑惑を。


 「さあ……わかりませんよそんな事。というか、パンダの沢木先輩ってなんなんです?パンダって?」


 できるだけ平静を装って質問する。

 百瀬先生のニヤついた顔は僕の反応を楽しんでいるかのようにも見えた。


 「あれ?知らないのかい?沢木君といったらパンダだよ、パンダ」


 先生は「有名なんだけどなー知らないのか―」と言ってニヤついた顔のままからかうように話す。


 「沢木君ていう子はさ、生まれつき身体中にいくつも変な形の痣があるんだよ。特に背中なんかちょうどパンダの目と耳があるみたいに痣があるんだ。だから、パンダの沢木って呼ばれてんのさ。理解した?」 


 嫌な予感がした。

 百瀬先生の言っている事が本当ならもしかすると、いやきっと夏川さんがあの時見つけた沢木先輩の痣は薬を投与した部位じゃなくて生まれつきのただの痣だったのかもしれない。


 「ん? いや待てよ……沢木君は確か夏川君と同じクラスの宮島君と付き合ってたっけな? あーでも一年の頃は皆勤賞だったらしい宮島君が今週一回も学校に来てないっていうのは夏川君に沢木君を寝取られたショックからなのかな?」


 「予言どころかもう断定しちゃってるじゃないですか……現在進行形で……しかも寝取るって……」


 「あ、いけね。校長に言うなよ?」


 口元で人差し指を立てて言うその仕草は「先生」という感じがこの人からはなかった。

 僕は言う訳ないです、と言って、百瀬先生がわざとらしく安心した素振りを見せると、不意に一般下校時刻を告げるチャイムが僕と先生だけの静かな教室に鳴り響いた。


 「やべ、無駄話が過ぎたなこりゃ。木野君、とりあえずマッハで板書しといて。君に長居されたら怒られんのは先生なんだからな」


 なんて勝手な言い分なんだろうとは思ったが口には出さず、言われた通りに従った。


 「あと三十秒で書いてくれよー時間やばいからさ」


 「ちょうど今終わりました」


 百瀬先生は「よし、さっさと荷物まとめろ」と僕を急かす。

 これからは生物だけは赤点取らないように意識を高めようと思った。


 「それでは、失礼します」


 「ああ、さいなら。危険な遊びで怪我しないようにね」


 僕が教室から去ろうとした時に言われたこの一言に妙な引っ掛かりを覚えた。

 考えすぎかとも思ったが、どうしても百瀬先生に対する疑念が消えない。


 「……百瀬先生は、誰かに僕らの事を聞いたんで」


 「百瀬先生じゃない。ナギ先生だ。最初の授業の時からそう呼べって言ってあるだろ?」


 僕の言葉を遮って自分の呼び方を訂正された。


 「じゃあ、ナギ先生は」


 「質問はまた今度。時間がやばいって言ったろ? 何度も言うけど、怒られんのは君じゃなくて先生なんだからな?」


 この時も百瀬先生、いや、ナギ先生はさっきも見せたニヤついたどこかからかっている様な表情でそう言って僕を教室から早く出るように促した。

 その物言いは、ますます僕のナギ先生に対する疑念を大きくさせた。











 「それで、結局沢木先輩とはそのまま別れたの?」


 「ああそうだ。ま、ある意味嬉しかったけどな。でもこれでまた振り出しからだ」


 夏川さんが沢木先輩とデートするはずだった土曜日から二日後の月曜日の放課後。

 夏川さんはデートの前に何度か沢木先輩と一緒に帰ったりして情報を聞き出そうとしていたらしい。

 ただ、その行動も夏川さんにとってはかなり苦痛だったみたいで、結果的にデートをせずに済んでホッとしていた。

 なぜデートをせずに済んだかというと、単純にそうする必要がなくなったからだ。

 デートの日の朝、僕は夏川さんと沢木先輩の後を尾行してチャンスが訪れたら先輩を殺すつもりだったのだが、突然夏川さんから「今日はナシ、あいつを付け回すのもお終い」という連絡を受けたのだ。

 その理由が、金曜日に沢木先輩と一緒に帰っていた夏川さんがパンダ沢木の話を知ったらしく、試しに先輩に傷を付けてみたところ、その傷が一向に治る気配を見せなかったためそう判断したらしい。


 「なんていうか……お疲れ様」


 「ホントだよ。この一週間丸々ドブに捨てた気分だ」


 心底気怠そうに言う夏川さんはやっぱりその綺麗な見た目とは異なっていて、それでいてやはり魅力的でもあると思った。


 「つってもこれからどうする? 屋上からレプリカを捜すのはやっぱり無理がある。ただでさえ見つからねえし、今回みたいなパターンもこれから起こりそうだ」


 「やっぱりレプリカが警察沙汰を起こすのを待つしかないのかもね」


 僕は冗談のつもりでそう言った。


 「そうするか。ははは」


 夏川さんは短くなった煙草を新しい物に変えてそう言った。

 僕らはしばらくはまたレプリカ捜しという当てのない作業を延々と行うことになるのだろうと思った。

 だが正直なところ、レプリカが誰かに危害を加えても自分に関係がなければそれでいいと思っている。夏川さんはわからないが、少なくとも僕はそうだ。自分の身に降りかかる危険を潰したいからレプリカ狩りをする。無理に探し出して消耗するよりは、待ちの姿勢で構えている方が合理的なのかもしれない。


 それからの変化は割とすぐに起きた。

 僕自身と関係がないようで関係のある出来事がわずか二日後に起きた。


 「どう思う? 木野くん」


 「夏川さんにフラれたショックとか?」


 沢木先輩が失踪した。

 話によると、土曜日からずっと家に帰っていないそうだ。


 「あたしにフラれたショックねえ……少なくともその程度の情弱じゃあないと思ってたんだが、さすがにあの言い方がまずかったかな?」


 「どんな風にフッたの?」


 「ごめんなさい、やっぱり先輩のような変態キザパンダとは付き合いたくありません。さようならって」


 「わーお清々しいレベルのド直球」


 「これってやっぱあたしのせいになるのか?」


 特に罪悪感を感じている様子もなく夏川さんは言った。


 「大丈夫だよ。多分」 


 「まあ知ってた」


 「そういえば夏川さん、今日補習じゃなかったっけ?」


 僕はあれから何度かナギ先生の補習を受けていた。

 その時に、ナギ先生から「いい加減夏川君にそろそろ来てくれるように君からいってもらえないかな」と言われていた事を思い出してそう言ったが、夏川さんは「そーいやそーだった」と言って大きな欠伸をするだけで何の気にも留めなかった。


 「補習なんていう眠くなるもんより、木野くんは何かレプリカに関係しそうな事は見つけたか?」


 「いや、僕の方は何も」


 「あたしはあったよ」


 ニッと口の端を吊り上げてさらりと言った。


 「へえ、どんな事があったの?」


 「宮島が来たんだよ。左腕を包帯ぐるぐる巻きにしてな」


 僕は素直に驚いた。

 そして、夏川さんの言おうとしている事も予想がついた。


 「それがレプリカとどう関係するの?」


 一応申し訳程度に聞いておく。


 「わかりきった事いちいち言わすなよ。レプリカになって左腕に注射して沢木を消したんだろ。そしてあいつはあたしの事も消す気でいる」


 「ただ左腕に包帯が巻かれているだけでそんな判断をするのは考えすぎなんじゃ……」


 「いきなり変な痣ができてたら驚かれるだろうし、女として嫌でもあったんだろ、多分。それに今日一日中、ずっとあいつの視線を感じてた。今もな」


 「今も?」


 「いるんだろ? 宮島さん」


 突然夏川さんは僕から視線を逸らし、僕の後ろの屋上への入り口の扉がある建物に向かって声を張り上げた。

 すると、その陰から左腕を包帯で痛々しい姿に巻いた宮島さんが現れた。 

 その時の宮島さんからは、以前、沢木先輩と付き合っていた頃の活気のある印象は見受けられなかった。目にはくっきりと隈ができ、髪も適当に束ねているだけだった。


 「……いつから気付いてたの?」


 宮島さんがこちらに歩み寄って、ボソボソと夏川さんにそう聞いた。 


 「最初からだよ。一日中血走った目で見られてりゃバカでも気付く」


 「へえ、そうなの」


 不意に宮島さんが僕の方を見て言う。


 「あんたが木野って人?」


 僕の名前を聞かれることは予想外だったので、少したじろいだ。

 僕がそうです、と答えると、今度は夏川さんが宮島さんに聞いた。


 「単刀直入に聞かせてもらう。沢木を消したのはあんたか?」


 物怖じすることなく淡々と質問する。


 「ええ、もちろん」


 「殺した理由は?」


 「わたしを捨てたからよ」


 「それだけなのか?」


 「あんたにはわからないでしょうね。わたしは真司の事が好きで好きで仕方がなかった。その気持ちを裏切られたのよ?」


 「生きてりゃ仲直りもできただろ」


 「仕方ないじゃない。好きな気持ちが大きすぎた故に、憎しみもその気持ちに比例したのよ」


 しばらく夏川さんが黙り込んで、また夏川さんが質問する。


 「あたしを付け狙う理由は?」


 「わかってるくせに。真司を寝取ったからよ」


 「寝取ったとは心外だな。あたしは勝手にあいつに惚れられただけだ。そんなもん難癖以外の何物でもないぜ」


 「難癖以外の何物でなくていいのよ。夏川さん、あんたさえいなければ真司はわたしを捨てなかった」


 「勝手な女だ…………じゃあ一番大事な事を聞かせてくれ。あんたはあたしと沢木を消すためにレプリカになったのか?」


 夕方の閑静な屋上に重たい沈黙が訪れた。

 一触即発。まるで爆発寸前の爆弾を目の前にしたかのような緊張感があった。

 僕は冷や汗をかくのと同時に、バッグの中の銃をいつでも取り出せるように身構えた。


 「場所を変えない? ここだとなんかあったらあんたたちにとっても不都合でしょ?」


 宮島さんが変わらぬ態度でそう言った。


 「木野くん、付いてこい」


 夏川さんが僕を促す。

 僕は黙って二人の後を追った。











 学校から数キロ歩いた先にある廃工場。

 宮島さんの後を追った先にあったのはそれだった。

そこへ向かう間、僕らは一言も言葉を発する事はなかった。


 「ここなら何も遠慮する事はないわ」


 長い沈黙を打ち破って宮島さんが言った。


 「それじゃあ、質問に答えてもらおうか。あんたはあたしと沢木を消すためにレプリカになったのか?」


 「ええ、もちろん。木野君も後で殺すけど」


 「秘密を知ったから? とか」


 僕がそう聞くと、「まぁそんなところよ」と宮島さんは冷めた態度で答えた。

 あくまで本命は沢木先輩と夏川さんで、僕の事はついでみたいなものみたいだ。


 「どこで薬を手に入れた?」


 「あんた何物? 一般人にしては詳しすぎない?」


 「質問を質問で返すな」


 いつか聞いたセリフを再び夏川さんは言い放った。


 「わたしに薬をくれた人が言っていたの。最近お仲間が何者かに消されてるからそいつには気を付けろって。それってもしかしてあんたの事?」


 「さあ、どうだろうな。いいからさっさと質問に答えろ」


 「質問したら答えが返ってくるのが当たり前なわけ? 馬鹿じゃないの? そんなの教えるわけないじゃない」


 相手を小馬鹿にするような物言いで夏川さんを挑発しているのがわかる。

 しかし、夏川さんはまっすぐ宮島さんを見据えたまま動かない。


 「だったら、ちょっと荒っぽく聞くしかないみたいだな」


 大きくため息を吐いて夏川さんが言う。


 「あんた、レプリカの事は知っているみたいだから詳しくは言わないけど、あんたの事はこの姿のままボロボロにしてやるよ。真司よりもひどい姿にしてから塵にしてやる」


 「その心意気、あたしに殺される覚悟はしてきたとみなしていいんだな?」


 「その言い方、やっぱりあんたがレプリカ狩りの犯人ね。何する気か知らないけど、ただの人間ごときに…………負ける気はしないわ!」


 言葉を言い終えた瞬間、宮島さんは目にもとまらぬ速さで夏川さんに躍りかかった。


 「夏川さん危な」


 「木野! わかってるな!!」


 「よそ見してられんのか!!」


 宮島さんの攻撃で起きた土煙で視界がゼロになった。

 僕は夏川さんに前から言われていた事を思い出し、物陰に隠れて様子を伺おうとする。


 「逃げんなよ! 妙なマネしたらあんたから殺すわよ!!」


 「テメーの相手はあたしだ!」


 「ゲフッ!?」


 宮島さんが僕に殺意剥き出しのセリフを言った瞬間、夏川さんの鋭い回し蹴りが宮島さんの顔面に直撃したのが見えた。


 「舐めんな!」


 「おっと」


 宮島さんの攻撃を華麗なステップで見事にかわしていく夏川さんの動きは常人のものを超えていた。

 宮島さんの僕への注意が逸れている間、急いで宮島さんに見つからないような場所に隠れるため、適当な物陰で、それでいて二人から離れすぎない距離に隠れて様子を伺う。

 二人の動きはテレビで中継される格闘技などの試合とは全くの別物で、動きが常に倍速で行われているように見え、その上一方は完全に相手を殺すつもりでいるのがテレビで観る格闘技の試合との一番の違いだった。


 「お前、本当に何者だ!? なんで人間を超えたはずのわたしの動きについてこれんのよ!」


 「経験不足なんだよ、あんたは」


 「ッ……クソッ!! クソッ!!」


 完全に自棄になっている宮島さんの動きを冷静さを崩さない夏川さんは軽々とかわしていく。

そして、大振りなパンチでガラ空きになった宮島さんの胴体に、夏川さんは強烈な後ろ回し蹴りを食らわせた。


 「うっ……ゴホッ!ゴホッ!」


 夏川さんの蹴りに吹っ飛ばされた宮島さんは埃まみれの鉄製の棚の下敷きとなって。そこから這い出た宮島さんはひどく咳き込みながらも、夏川さんを殺そうとする事を諦めていない。

 宮島さんは近くにあった五十センチ程の鉄パイプを握りしめて、再び夏川さんに襲い掛かった。


 「殺す! 殺してやるぅ!!」


 「おいおい、そんな使いやすそうな武器は反則だろ」


 夏川さんは手近な物を手当たり次第に投げ付けて距離を取り、自分も同じ鉄パイプを手にして応戦した。

 鉄と鉄がぶつかり合う音と、二人の力を振り絞った声だけが工場内に響いた。

 縦に振ったパイプは身を翻してかわし、横に振られたパイプは後ろに飛んだりしゃがんだりしてお互いに振ってはかわし、振ってはまたかわし続ける。

 そんな攻防が、およそ十分程続いた。


 「はぁ……はぁ……っぐ!」


 「あははは! そろそろバテてきたみたいね。このまま大人しく死ねや!!」


 「夏川さん!」


 「キミは黙ってろ!!」


 夏川さんはそう叫んで、鉄パイプにだけ気を取られていた宮島さんの脚を払い、相手の体勢を大きく崩した。


 「なっ!」


 「お前の負けだ」


 フルスイング。

 夏川さんはよろけて上体が前に倒れかけた宮島さんの顔面にむけて、鉄パイプをピッチャーが投げた球を打ち返すように「オラァ!」と声を張り上げてフルスイングした。


 「!!……ッ!」


 宮島さんは声を出す間もなく後ろに飛ばされ、地面に倒れ伏した。


 「はぁ……はぁ……そろそろ、お前に薬を打った奴のことを話す気になったか?」


 すっかり忘れていたが、夏川さんは宮島さんを殺すために戦っていたのではなく、薬を与えた人物の情報を聞き出すために戦っていたことを思い出した。


 「く……うぐ…………くぅ」


 「嘘だろ……まだ立てんのかよ……」


 宮島さんは血と埃に汚れた顔を夏川さんに向け、体を起こした。

彼女の顔面は崩れてしまっていて、可愛らしかった彼女の面影はそこにはなかった。


 「殺してやる……これで……勝ったと思うな!」


 宮島さんが包帯を外し、左腕の歪な痣を露わにし、その痣に傷を付けるためのボールペンを右手に持った。


 「ふふふ……これであんたも……お終いよ……」


 バンッ!


 「残念ながらお前の負けだよ。これで、お前はもう立てない」


 「…………は?」


 突然の銃声に、宮島さんは状況が飲み込めないといった表情をしていた。

 そして、自分の右脚からおびただしい量の血が流れていることに気がつくと、鼓膜が破れてしまいそうなほどの悲鳴を上げた。


 「いやあああああ!!痛い!痛い!痛い!いだあいいぃぃぃ!!」


 宮島さんの痛みにもがき苦しむさまを見ながら、夏川さんは煙草を取り出した。


 「キミもなかなかやるな。相手が変身しようとしてる時の攻撃は、ヒーローものじゃ御法度だぜ?」


 「この時が相手が一番油断すると思ったからね。夏川さんが途中でやられるんじゃないかと思ってハラハラしてたよ」


 「言ったろ? あたしは強いって」


 夏川さんが新しい煙草に火を点けながら誇らし気にそう言って「あーやっと吸える」と疲れた声を出した。

 そして、近くにあった手頃な長さのロープを手に取り、脚の痛みに悶絶する宮島さんの両手を縛り上げる。


 「はぁ……はぁ……あんたら……本当に何者よ」


 「ただの人間だよ」


 少なくとも僕は、と心の中で付け加える。

 やはりさっきの動きを見たら、夏川さんも何か特別な力があるようにしか思えなかった。


 「で? 話す気にはなったか? 大人しく吐いてくれたら、これからあんたを拷問しなくても済むんだがな」


 「……わたしが、なんでこんなザコそうなチビに…………」


 「殺す順番を間違えたな。あんたの始末は、最初から木野くんにさせるつもりでいた」


 宮島さんは血と埃で汚れた顔を、悔しそうにさらに涙で汚した。


 「傷が……治らない?」


 「ああ、それはちょっとした手品みたいなものだよ。宮島さん」


 僕が撃ち込んだのは赤い銃弾。対レプリカ用の限りある消耗品だ。


 「それにしてもよく一発で上手く当てたな」


 「距離も縮めてたし、何よりエアガンで練習してたから」


 僕らの会話を聞いた宮島さんは「ふざけやがって……」とさらに悔しそうな顔をした。


 「で? いい加減話してくれないか? 大人しく話せば本当に悪いようにはしないからさ」


 「……お前らに話す事なんて何もない」


 「じゃあ、拷問を受ける覚悟ができたとみなすが、それでいい……な!?」


 夏川さんが最後通告のようにそう言った瞬間、宮島さんの口から大量の血が滝のように流れ落ちた。


 「こ、これは!?」


 「チッ、まさかこいつ、舌噛み切りやがったな! 何勝手に死のうとしてんだ!」


 夏川さんが声にならない声を上げて悶え苦しむ宮島さんに駆け寄って噛み切った舌を吐き出させようとしている。

 舌を噛んで死亡する原因が痛みや失血死ではなく、噛み切った舌が気管につまって窒息する事にあることを知っているようだ。


 「ッ……ゴボッ……ゴ」


 「クソッ! 死ぬなら喋ってから死ねってんだ!」


 僕も宮島さんに駆け寄り、彼女の頭を押さえ、夏川さんが気管に舌や血が行かないように背中を必死でたたき続ける。

 しかし、宮島さんは逆に気管を詰まらせて自殺を成功させようとしていた。

 宮島さんの口から溢れ出る血が僕の白いワイシャツを赤黒く染め上げていく。僕らに抵抗する訳でもなく、ただただ必死に死のうとしかしていなかった。


 「くっ! この!!」


 「夏川さん……もう……」


 とうとう宮島さんは動かなくなった。

 動きを止めてすぐに、宮島さんは塵になって、廃工場の泥や埃と混ざっていった。

 僕のワイシャツを染め上げた彼女の血も消えていた。


 「この銃弾で撃ち抜かなくても……自殺はさせられるみたいだね」


 「……帰ろう、木野くん」


 「うん……」


 これ以上何かができる訳でもなく、結果的に今日はレプリカを一体狩ったという事実だけが残った。

 宮島さんとの戦いがいざ終わってみると、レプリカを消した達成感というより、胸の中がスカスカになったような虚無感だけがあった。

 考えてみなくてもわかる事だが、今回のレプリカ狩りは後味が悪いと夏川さんは言った。僕もそう思う。あの時僕らが沢木先輩をレプリカだと誤認しなければ、宮島さんはレプリカにならずに、今も沢木先輩と仲睦まじくやっていたかもしれない。


 「なにショボくれた顔してんだよ」


 「別にそんな顔してないよ。これで良かったんだ……」


 「そうだ、これでいいんだ。理由はどうあれ、レプリカは消さないといけない。それに、あんな自分勝手な恋愛観だったら、あたしらが行動起こさなくてもそのうちレプリカになってたさ」


 半ば呆れたようにも言う夏川さんはどこか遠くを見ていた。

 つられて僕もその方向を見ても、絵具で塗りつぶしたような鈍いオレンジ色の沈みかけた夕日しか見えなかった。

 

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