6、【最終回】

 視界に『十字架』が入った。

 とたんに眼が離せなくなる。想いもそれに集中する。

 なぜ俺はこうして呪縛するものに捕えられてしまうのだろう。そして何かが耳元で囁きだす。


 この場所で唯一生きているものは、その『十字架』だ。意味を持って存在しているものはそれしかない。



 『十字架』から滴っている赤いものは、錆などではない。触れればきっと温かいに違いない。今こうしているあいだにも流れ落ちているのが見える。そしてその滴り落ちた場所には徐々に凝結していく赤い塊がある。


 俺は、なにかに導かれるように手を伸ばした。その塊に触れるために。

 思ったとおり微かな熱を感じる。呼吸し、代謝し、蘇りを繰り返すものから感じる熱だ――俺はその表面に触れて水のような質感を確かめ、その中に手を入れた。

 俺の手は真空状の力に引き込まれていく。


 次の瞬間赤い塊は融け、床板の隙間から流れ落ちていった。

 俺の手は血に染まっている――血の匂い。酸化していく血の感触。


 俺の耳に、喉を鳴らしてなにかを呑み込む音が聞こえた。

 俺自身が唾を呑み込んだのかもしれない。だがそれは、奈落の底から聞こえたような気がした。


 この下でなにかが口を開けて待ち構えていたのだろうか――喉を潤したそれは、深い溜息をもらした。決して俺自身の声ではない。


 俺の頭の中には、見晴らし台の下にぶら下がった『女』の首がある。


 風が勢い強い。床板を下から叩くものがある。


 俺の耳に、喰いしばった歯の隙間から漏れたような苦しい喘ぎ声が聞こえた。



 『ゲート』のほうに俺の関心を惹きつける現象が起こっていた。

 視野に入った動くものを俺は凝視する。


 手摺が崩れ落ちて解放された空間から、在ってはならないものが訪れる――奈落から迫上せりあがってくる――乱れた長い黒髪。紙のように白い顔。


 俺は息を呑む――蘇るものがあるとしても、俺が眼にしているそれは認めたくない――身体から切り離された『女』の首がそこにあった。


 首が、板に這い上がり、俺に向かってこようとしている。


 俺は自分がどういう反応をしているのかさえ考える余裕もない。眼が釘付けになってそこから動けないでいる。



 次に俺が見たものは地獄から這い上がってきた一匹の亡者に間違いなかった。

 『女』の首はその亡者の手に掴まれていた。


 『十字架』から滴った血が、それを生き返らせたのか――血の色に染まったその顔は、俺が子どものころ想像した『鬼』に見えた。


 『鬼』が板の上によじ登り、俺を眺め、そして立ち上がるのを、俺は呆けたように見ていた。


 『鬼』が俺に近づいてくる。


 『鬼』が荒々しく呼吸をしている――『鬼』とは、生き物の一種なのだろうか――俺はそんなことを考えている。バカな!


 俺が見ているのは、顔を血に染めたユブセだ――。



「ユブセ……?」

 俺の声は傷ついた声帯から絞り出したかのように情けない。


「なんだ!」

 ユブセは大きく口を開けて、俺に向かって咆哮した。開いた口は虚無の洞穴のように深い闇を覗かせている。

「悪戯に脅かしてみたたけだよ――そういってほしいか? こいつがただの作り物だとでもいってほしいか?」


 ユブセは『女』の首を俺に投げつけた。


 俺は一瞬『女』が俺の腹に噛みつくような気がした。


「いいや」 『鬼』の顔をした男がかぶりを振った。そして自分の胸を覗き込むようにうなだれ、幾度か肩で大きく息をした。

 ユブセは何かをいうための準備をしているのだと、俺は思った。


 ユブセはいったい何をいうつもりなのか――切り刻んだ女を、俺を脅かすために用意した小道具だとでもいうつもりか。

 俺が味わった肉はただのジョークなのか。


 眼の前に転がっている女の首は、作り物には見えない。


「ずいぶんとリアルな惨劇だな。これを、俺のせいにする気?」

 言葉が、いやにスルスルと舌の上で回転する。だが呼吸と一致しないせいかギクシャクしている。


「そうとも――おまえのせいでなきゃ、なんだというんだ」

 ユブセは血の匂いのする言葉を吐き出している。


「でも、彼女を殺したのはあんただろ? 俺には関係ない」


「俺は殺しちゃいない」


「え?」


「俺は誰も殺したりしないといったはずだ。誰も女を殺したわけじゃない――突き詰めれば、彼女が死んだ原因は、おまえなんだ」


 俺の呼吸がいっとき止まり、テンポを変えて再開する。

「でも――彼女には抵抗した跡があった」 俺は呟いた。


「なんだって?」


「手のネイルがボロボロになってた……」


 ユブセは口をあんぐりと開けて俺を見つめた。

「おまえ……。ほんとに変わってるな。観察してんのか。俺は、おまえが死体を見なかったのかと思ってた――なんにもなかった顔して。よく平気でいられるな」


 俺はいちいちユブセの期待とは外れた反応をしているらしい。


 誰も俺自身を知らない。自分でさえ分からない。俺がなにを感じるか。何を思うか。その瞬間になるまで知ることはできない。だがそんなことはどうでもいい。


 俺はいつのまにか『女』の首に見入っている。用足しに立ち寄った場所に在ったボディと接続させてみているのだ――これは――俺のまったく知らない女だ。そして今はじめて知ったばかりだ――そんな気がする。



「ああ、そうだな」と、ユブセがいった。

「確かに、抵抗したのかもしれないな。そのときになって、躊躇ためらったんだろうぜ」


「そのとき?」


「死ぬ瞬間さ。死ぬ時になってやめたくなったんだ。だから、首にまといついた紐に爪をたてた。恐らくそういうことだ」


「……ん?」


「実際に見てたわけじゃないからな……。俺が見つけたときには全部終わってたんだ。この世界から消えた後だった。残ったのは厄介な肉の塊だ。もう、どうしようもない。いい迷惑だぜ。まったく!」


 ユブセの云い方はまるで俺のせいだ。なぜ俺なんかのために彼女が死ななきゃいけない? たった一度、偶然会った。なにもかも、たんなる成り行きで起きたことだ。そしてそれっきり――。



「あいつは、おまえを待ち伏せたといってた」


「……え?」


「時々待ち伏せて、なかなか決心がつかず――おまえに声をかけたときは死ぬような思いだったんだとさ」


 俺の頭の中が空白になる。


「まったく――! なんで婚約までした女からそんな話を聞かなきゃならないんだ。俺はバカ面したピエロか」


 嫌なシチュエーションだ。俺は溜息をもらす。

 女が苦しくなって打ち明けたのはそんなことだったのか――あれが偶然じゃなかったということに、俺は急に寂しさがこみあげた。


 誰かの想いがはじめからそこにあって、俺は仕組まれたセンテンスの上を歩かされた。少しもドラマチックなことではなく、女は計画した行動をとり、そのつもりで俺の眼を覗き込んでいた――あれは一時の夢ではなく、筋書きのあるアクティングだった。


 プロンプターが耳元で笑っている――笑えと、俺に指示しているのか。

 だが俺に笑う理由はない。

 このくだらない大芝居に唾をして、俺の手で幕を下ろしてやりたい。



 『女』の首はなおも、俺を釘付けにしている――実際、俺は、今以上の興味を持ってあの女を見たことはなかった。

 その辺にいる大勢の女と変わらない。男とは違う生き物。そういう対象でしかなかった。

 だからあの時も、ただそれが女だからという理由で、わずかな時間を共にした。


 だが今は違う――『女』は俺を捉えた。生きている他の女には決してできない。


「あんたも役者のひとりにすぎないのか」

 俺は、ユブセの腰に巻きつけてあるロープを一瞥し、再び『女』を見る。


「なんだって?」


「あんたも、俺も、彼女の演出通りに動かされてる――これは、彼女の舞台なんだ。主役も彼女――」


 一拍間合いを置いて、ユブセが声をあげた。人間の声とは異なる音をほとばしる。

 言葉では表現できないなにかが、ユブセの喉を絞り上げているようだ。


 俺は束の間、胸に痛みを覚える。これは、ユブセへの同情だろうか。



 空中に嵐の気配が迫っている。雷鳴と湿りを帯びた空気と、重く圧するなにかが俺たちを包んでいる。



 ユブセは打ちのめされた老人のように佇み、俺たちのあいだにある空気を見つめている。恐らくユブセはそこに、空気以外のものを見ているのだろう。

 彼のプロンプターはなにを囁いているのか――あるいはもう逃げ出したか。


 俺は二度と、醜く変貌した男に眼を向ける気はない。



 死によって『女』は揺るぎない権力を得た。俺たちはこうして抵抗するすべもなく踊らされている。そうと気付いたとたん、ユブセは自身を木偶でくだと知らされた。哀れな道化ですらない。魂のない抜け殻の人形だ。


 女は俺に復讐するために、ユブセを体現者として操ったのだ。


 『女』が考えぬき、最後に身に着けた衣装は、否応なく俺の眼を惹きつけた。


 俺が、彼女という存在にはじめて出会ったのは、数時間前のあの時に違いない。 彼女は、草いきれと真夏の光のもとに白い肌を横たえ、俺の神経のすべてを掴んだ。俺の耳もとに血の流れと、鼓動の響きを囁きかけた。


 そうして俺自身の命の証を意識させる。


 そのために『女』は、『死』をまとった。

 そして同時に、『女』は俺の中で生きはじめる。

 『女』は、俺の中にいたたんなる生き物としての彼女を消し去ろうとしている。挑発的な瞳の動きも、官能的な声も、俺の腕の中で緩やかに反応した肢体も、俺の記憶の中から徐々に薄れていく。


 それらに取って代わるものは、白い骨。肉の破片。凝結した血液。そして、俺の五感に染み込んだ味、香り、舌に触れた感覚。


 俺は、彼女の肉を喰いちぎった獣と変わらない。だが決して獣ではない――こうして彼女の意思が俺に届いたとしたら、俺はどうしても獣には成れない。



 『十字架』が俺の視野に入っている。

 確かにそれは、なんらかの意味を持ってそこに存在している。


 俺には、その意味を考えるための時間がある――途轍とてつもなく長い、永遠にすら思える時間だ。

                             ―了―          


     



 

 




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Cross《クロス》 織末斗臣 @toomi-o

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