5、

 悪魔の顔をした男が俺を見下ろして、臭気を漂わすセリフを吐く。


「俺は、おまえのために料理した――おまえに味わわせてやりたくて考えついた。異常なことかもしれないが、やってみりゃ大したことはない。

――味は、どうだった?――

いろんな味わい方があるだろうが、そういうのは滅多にできない。立派なメインディッシュだっただろう。それとも、つまみ食いしたときのほうが美味かったか?

 あいつは自分から屑になり下がった。それも、相手はおまえみたいな奴だ――まったくバカな女だ。

 俺にはあいつのことはもう、どうでもいい。肝心なのは、おまえだ」


 ユブセはあくまでも俺を同じ板に乗せたいらしい。


 味とはいったいなんだ? つまみ食い? 女のことをいっているのか? フィアンセの彼女――俺に食わせるために考えついた料理? つまり、ユブセは、女の肉のことをいっているのだろうか。


 ああ。そういうことか。

 俺は淡々と考えを進めていく――なんだ、そういうことなのか――ユブセの考えた、この芝居じみた芝居の見せ場は――そういうことなのか――。


 ユブセは、腹いせに、殺した女の肉を、俺に食わせている、らしい。


『ははは――!』 俺は腹の中で笑い飛ばす。ユブセが俺に味わわせたい苦しみはこの程度だ。こんなことくらいでは、俺は、ユブセが想像するように驚きもしなければ、苦しみもしない――たとえ、そんなことが事実だとしても。

 まして、神経的な拒絶を感じてその肉を吐き戻したりもしない。

 しっかりと消化しつくし、搾り取れる養分をすべて吸収してやる。

 女の死はあながち無駄にはならない。俺の空腹を満たしたのだ。



 ユブセは確かに狂っている。

 俺は無言でユブセを見ている。

 まだ、俺の喋るときではない。


『順番を間違えるな』 プロンプターが囁く。

『出番を間違えるな』 プロンプターが叱咤する。

台詞せりふを間違えるな』

 だが、この陰鬱なプロンプターはセリフを教えてくれるわけではない。


 だから俺は黙っている。


 それに俺はあくまでも観客でいるつもりだ。いつでも、この創りあげられたシチュエーションの枠から出ていけるように。


 ひとことでもセリフをいってしまえば、ユブセの思惑どおり、舞台からは降りられない。


 俺は黙したまま、ユブセの動きを見ている。



 ユブセは後ずさり、手摺にもたれかかった。

 両腕を広げ、強張った指で手摺を掴もうとしている。

 自分自身を落ち着かせるためのよすがを必要としているのだ。それはたとえ腐りかけた木片でも構わない。


 俺の眼差しは、ユブセの背中を受け止めた手摺のほうへ移った。



 どんな瞬間であろうと、状況を一変させるような出来事は見事にドラマチックだと、俺は思う。


 音も動きもすべてが、破られた風船の一瞬のようだった。

 驚き、ショックを与えられるが、状況ははっきりとはつかめない――風船という形のあったものが瞬く間にぼろきれのような哀しいものに変わっている。

 変化の過程は見えない。


 いくつもの断片に分かれた木切れが宙を舞って落下していく情景を、俺は後に想像しただけにすぎない。

 実際俺が見たのは、急に膝裏を折られたような脱力感がユブセを襲った瞬間だった。彼は仰向いて、両腕を広げたまま、俺の視界から消えた。


 俺は呆気にとられたが、同時に、大掛かりな芝居を見せられている気分でもあった。現実離れした一連の筋立てのクライマックスの様相。


 ムソルグスキーの曲が山々を揺るがすほどにボリュームアップされた。

 そこには物音も絶叫もない。BGMのみで場面は展開する。


 ユブセが俺の前から消えてなくなり、ひしゃげた手摺の残骸が奇妙な形のゲートに変化した。



「――分かるような気がする」

 俺は、まるで自分の分身にでもなったような箸を、ナイフを持つような形に握り直し、ユブセの最後の質問に答えた――自分がいうべきセリフを思いだした。


 ユブセが用意した小道具の中身がなにか、分かるか――そういうふうに自分のセリフに置き換えて自問し、それに対して勝手に言葉が口を割って出る。



 俺の頭の中に再びプロローグの場面がよみがえった。あれがプロローグだったことにも、今気づいた――俺が出会った『死体』。

 『死体』から切り取られたパーツがここにある。ユブセのバックパックから出てきた包みが否応なしに俺の眼をくぎ付けにしている。


 透明なビニール越しに鮮明な色彩が招きよせる。ショウウインドウの中の宝石のようだ。完全な形で五つ並んでいる。

 あの、手の指を飾っていたエナメルと同じ色――完全な作業を施されたまま、少しの遜色もない。


 俺は箸をナイフのように使い、ビニールを破った。


 数時間前のあの情景を焼きつけた俺の眼が、眼の前のパズルの破片を確認した。


 膝の関節から下の部分の、美しさを保ったままの足があった。



 パズルの破片には多くの欠けた部分がある。もっとも重要な部分は、どうしたのだろう。アイデンティティを示し、生きるために必要不可欠な役割を果たしていた頭部は――だがもう、できるなら考えたくない。

 俺が直接かかわった事実は、おそらく何もない。


 すべてがユブセのひとり芝居。

 俺は無理やり観客にされた――眼を背ければいい。逃げ出し、足跡を消し、この時間を削ってしまえばいい。


 知らず知らず俺は次の行動に移っている。何をすべきか、俺の中にそれを知っている奴がいる。



 風邪は湿気を帯びて冷たい。ますます強く吹いている。

 床板に振動する物音も聞こえている。



 まず俺はユブセのバックパックを足で押しやりながら『ゲート』に向かった。そしてそれを蹴り落とす。

 ユブセが持ち込んだ荷物はすべて落とさなければならない――聖餐の残り。ふくらはぎを包んだ荷物。ビニールの中身がこぼれ出ないように慎重に運ぶ――大きく破りすぎた。ささくれだった板の上を、蹴りながら進むのはかなり骨が折れる。


 手を使わないのは何故だ――自分の指紋がつくのを恐れているのか。

 先に落ちたユブセとこれらの荷物が一緒に発見されることになる。

 ユブセがひとりで死体の一部を運び、事故か自殺で命を落とした。

 死体の他の部分もすぐに見つかるだろう。


 『女』は、誰もが知っているユブセのフィアンセだ。彼ら二人のあいだでなにかがあった。そういうことになるだろう。実際そうなのだ。


 俺がかかわっている気配もない。


 ユブセの残した荷物が俺の前から消えていく。同時にユブセの存在自体も俺の記憶から薄れていくのだ。

 俺は、ユブセの正体を知ったわけではなかった。あれは、こけおどしの張りぼてだ。だから幕を下ろした芝居の内容を忘れるように、ユブセのことも記憶のどこかに仕舞い込んで終わりにする。


 食わされたものも明日には糞にして流し去る。



 俺は這いつくばって見晴らし台から頭を出した――奈落を覗く。

 こんな頼りない板切れに身を預けている自分が奇妙だ――怖くはないのか――自問しているのはさっきプロンプターを務めていた奴だ。

 俺自身を保つために、奴は常に必死だ。放っておけば俺は俺を壊しかねない。


 ――何も見えない。生い茂った樹木と、確かに糸のような川の流れの他には何もない。


 また、板を振動するものがある。

 見晴らし台の下になにか見え隠れしているものがあった。


 なにか、丸いものがぶら下がっているようだ。それが風に煽られて大きく揺れている。揺れるたびに見晴らし台を支えている杭にぶつかるのだ。


 ユブセははじめにここから身を乗り出して下を覗いていた。あれは、自分が用意した小道具の存在を確かめるためだったのか――欠けていたパズルの欠片だ。



 ユブセが用意したクライマックスは大成功だと認めよう。



 俺は上体を起こし、『ゲート』から後ずさった。


 空を仰ぐ。


 『女』の首と俺を暗い雲が覆っている。くぐもった声で雷神が笑いはじめた。


 俺は意味もなく首をめぐらす。なにかを考えるためだろうか――目的は判然としない。ただ、周囲を見まわし、きっかけを探している。自分がこれから起こす行動へのきっかけだ。


 視界に『十字架』が入った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る