4、

『彼って……、窮屈な感じがする。時々嘘が見えるのよ』

 それはユブセのフィアンセのセリフだ。今、その意味がなんとなく分かった。

 『嘘』というのは、虚飾の意味だ。


 本気じゃなくても結婚の約束ができるのかと、俺は彼女に聞いた。


『だって、格好いいじゃない、彼。仕事だってできるし、将来有望みたいだし、お金あるし、優しいし――結婚しない理由なんてないわよ』


 しかし彼女には『嘘』の正体は理解できない。

 『優しい』というセリフが寂しそうに聞こえたのは、『プライド』という言葉が理解できない俺と同じ理由に違いなかった。


 誰もが女を甘やかし、女はそれを『優しい』と思い込む。


 俺ははなから人に優しくするやり方なんていうのは分からない。ユブセは、俺よりもさらに理解していないような気がする。



 俺たちは皆、時という潮流に呑み込まれ流されるうちに、それぞれがなにかを掴み、あるいは失って、変化していく。

 俺のように流されるだけの奴も、ユブセのように自分で泳ぎだす奴も、いずれは疲れ果てて沈む。誰も流れから抜け出すことはできない。



 俺は十字架に眼を向け、なにを考えるべきかを考えていた。


 俺が逃げだせない場所をユブセは選んだ。彼がいったい何を考えているのか見当もつかないが、ここはまさに復讐の場所にはうってつけだろう。


 俺は、ユブセの女を奪ったつもりはまるでないのだが、彼がそう思っているのなら、俺には弁明のしようもない。



 ――なにかが、見晴らし台の土台にぶつかっているような、鈍い響きが聞こえていた。風が吹きはじめてから気付いたのだが、音というより、振動となって見晴らし台の床板に伝わってくる。


「なんだろう――」 俺はいつも感じたままを口にする。


「え?」


「なにか、聞こえませんか?」


「――いや、べつに」 ユブセは少しのあいだ虚空を睨んでから答えた。


「なにか、ぶつかってるみたいだ」


「ぶつかってる?」


「床に響いてきます。感じませんか」


 ユブセは床に視線を落とした。

「ああ。風のせいだろう。下から煽ってるんだ」

 そしていとも簡単に答えを出す。その引き出しはいったいどこにあるのだろう。


「大丈夫かな……」

 俺は掌を床に当ててみた。不規則に音は響いてくる。


「そんな簡単には落ちない――でも怖いなら、そろそろ引き上げようか」


 簡単には落ちないとしても、ユブセはまるで落ちるときを知っているかのようにしゃべる。彼は常に引き金に指をかけているかのようだ。

 ユブセにとって、俺をここから墜落させるのは簡単なことに違いない。


「平気です。怖いわけじゃない。ちょっと、気になっただけです」


「ふーん。おまえ――なんだかんだいってても、箸を離さないなぁ。神経が図太いのかもな――実際」


「それ、嫌味ですか」


「ちょっと、な」


「俺、食い意地張ってるから――親父によくそういわれました。俺はなにがあっても食い物だけは手に入るそうです」


「なんだ、それ。占いか?」


「占いです。死んだ祖母ばあさんの専門でした」


「祖母さんが占い師? おまえも占いを信じてるのか」


「信じてますよ。親戚はみんな観てもらうんです。祖母さんが死んだあとは親父の姉さんが引き継いでます」


「迷信深い家族なんだな」


「迷信? すごく科学的なものですよ」


「占いなんて、迷信だろ。違うか? まるで現実的じゃない」


 俺は言葉を呑みこむ。現実的じゃないというなら、今この瞬間はよほど非現実的状況だ。


 ユブセの頬に鳥肌が立ち、蒼ざめて見える。なぜだろう。風は一段と強くなったが寒いほどじゃない。

 ユブセは何かを怖がっているのか。そういうふうにも見える。彼が恐れるとしたら、なんだろう。


「風が止むと、たいてい雨になる。雷雨だ」 空中を睨みながらユブセが呟いた。

「山の天気はどんでん返しみたいに変わる――俺の現実と同じだ――なんでも上手くいってるような気になって、安心していると、突然ひっくり返される――甘く考えてた俺が悪いんだろうけど。

 これが最高だと思ってたものが、ある日、なんの価値もない屑になり下がる。それが現実だな。見極めがつかなきゃ取り残されるんだ。屑に取りすがって、その屑のために現実を見失うことになる。

 俺も占いを信じてみればよかったのかな――そうすれば、失敗しないための手段が分かったのかもしれない。そうだろう?

 おまえは、占いで、どんな生き方を教わったんだ?」


 俺にはますますユブセが分からなくなる。


「雨が降りそうなら、はやめに山を下りたほうがいいんじゃないですか」

 俺は現状に眼を向ける。

 ユブセの構築しようとしている世界には関わりたくない。


 ユブセが、俺を見た――奴の表情がまた変化している。感情的なものをいっさい覆い隠し、彫塑のたぐいつらを装っている。


「なにから降りたい? 俺が設えた舞台からか? 山から降りるのは簡単だが、この舞台からはなかなか降りられないぞ」


「ユブセ先輩……?」


「おまえはどういうわけか、バカだと思われているらしいな。どういう意味のバカなのかは知らんが、そんなのは相手を安心させるためのポーズだよな。くそ! おまえがバカなもんか」


 ユブセの言葉はすべて吐き捨てる唾のようだ。


 俺は、バカだと思われることに慣れている。別にポーズでもなんでもない。人が勝手にそう見るだけだ。

 なら、ユブセは俺をバカだとは思っていなかったのか。

 ユブセの感覚を、多少なりとも俺は気にしていた。彼の下す評価は、時には注目すべきものがある。


 だが、この現実を前にしてどうでもよくなった。地上では崇高にさえ見えていた男と、一対一になった途端に、その関係は崩れ去った。



 今俺が見ている醜い生き物はいったいなんだろう――そんな気分になっている。

 執拗に絡んでくるそいつの情念のようなものから、逃げ出したい。



 俺は、人間の情という感覚が苦手らしい。


 一時それらしい感情が湧いても、すぐに消えてしまう。

 恋愛も同情も怒りも、俺は常に受け取るだけだ――いや。怒りはある程度持続するかもしれない。俺は、俺に対するユブセの怒りに反応して、自分でも苛立たしい気持ちが生まれつつあるのを感じている。

 この怒りはおそらく、ユブセの存在に対して永久に続くような気がする。


 感情というものがいったいどこから湧いてくるのか不思議に思うことがある。

 それらはいつも予想もしないかたちで現れ、俺の中で勝手に暴れ回り、いつのまにか消えている。

 俺は感情に小突きまわされて行動する。



 女が、俺の目の前にいて、野菜の欠片を口に入れるのを見ていて、なんらかの感情が湧いたときも、俺は別に気にも留めず成り行きに任せた。

 女の行動に従って自分の行動を進めていくのは簡単だ。


 俺は喋りたいことをしゃべり、それが相手を選ばない俺の癖だということもじゅうぶん承知だ。

 そしてそれは一時的な欲望とは無関係だということも分かっている。それを相手がどう受け取ろうが、俺には関係ない。



「分裂してるな」 ユブセが俺を見据えて、いう。

「バカのほうがよっぽどましだぜ――おまえは分裂してるよ。自分じゃ分からないだろう」


 俺は、きっと呆けた顔でユブセを見返しているに違いない。

 ユブセの云う、分裂した俺のどういう自分がここにいるのだろう。



「今までで、最高だろう?」 ユブセが聞いた。


「え?」


「俺の料理さ。そういうのは、もう二度と食えないかもな」


「……俺のこと、殺す気ですか」


「バカいうなよ。俺は誰も殺さない。自分自身を追い詰めるような真似はしない。毒でも入ってると思ったのか」


「はい。……毒殺か、で、なきゃ……ここから落とされるのかと」


「なぜ俺に殺されると思うんだ。おまえにそんな楽な役をやってもらうつもりはない――おまえは、もっと、いろんな経験をすることになるんだ。そしてその記憶がおまえに一生ついて回る。

 それはたぶん、死ぬことはできないが、苦しみ続ける毒の類だろうな。おまえがどんなにバカでも感じるくらいの苦痛だ。

 俺のいっている意味が分かるか?」


 俺は床に眼差しをむけた――眩暈がする。風の音が耳鳴りのように頭に入り込んでくる。



 ユブセは狂っている――いや。狂っているのは俺のほうかもしれない。



 異様な変化を見せはじめた空が、俺たちの状況をライトアップしているような気がした。ムソルグスキーの曲がBGMとして思い浮かぶ――なんて相応しい。


 俺は思わず笑い声をあげた――ユブセには俺が笑った意味は分からないだろう。それが彼の心を逆撫ですることになる。


 ユブセはもう本来のユブセではない。瞳の中に凍りついた海を持って、俺を見据えている。



 立ちあがったユブセが自分のバックパックを蹴り、中身をぶちまけた。


 一抱えほどの包みが転がり出た。

 俺はそれを見て、奇妙だと思った。


 透明なビニールに包まれたそれは、山で見るには似つかわしくないと感じた。


 無機質なものではない――ずっしりと質感のある塊が重たく床に吸いつき、わずかにグラッと揺れて静まりかえった。


 なにを見ても驚かないが、俺は俺なりの見極めがつくまで観察しようとする。


 水分とゼラチン質をたっぷりと含んだものの揺れかただった。


「それがなんだか分かるか」

 そういうユブセの形相は、ついに悪魔に変貌した。

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