3、

 俺が示す方向へユブセが首をまわした。

「あれって、十字架じゃないのか」 瞬時にユブセは答える。


「十字架?」


 朽ちかけた木の手摺に、同じようにボロボロになりかけた木片が打ち付けてある。木片を支えている無様に太い釘は、すっかり赤錆びて血のような染みを垂らしている。

 確かに木片はクロスさせてあるが、十字架には思えなかった。


「十字架だよ。誰かが作って置いてったんだ。ずいぶん古いな。注目しなきゃ気がつかない。修理の跡みたいだしな――でも、十字架だ」


 決定権はユブセに譲るよ――俺は胸のうちでそう呟く。それは十字架に違いない。あんたがそういうからには――そうだと思って眺めれば、そこに神々しいものを感じるかもしれない。


 一時いっとき、すべての音が途絶える。

 また眩暈がする――なんだろう。


「無宗教だからよく分からないが、なぜ山に信仰を持ち込むのかな。山のいたるところに十字架や仏像や神棚の類のものがあるだろ? 山に登るのは祈るためか。神に近づくためか。あるいは、遭難者の魂を鎮めるためかな」


 そういうユブセの言葉はすでに、そこに十字架があることを決定づけている。

 ユブセに宗教が必要ないのは分かる。『神は死んだ』――誰の言葉だったろう。


 俺にとっても神は死んで久しい。だが信じている者を否定する気はない。なにか縋るものが必要な人間は大勢いる。



「友だち程度の彼女?」 ユブセはさっきの話の続きをしている。


「俺はまだユブセ先輩のようにフィアンセってわけにはいきませんよ。責任持つ勇気ないし……。俺って、気持ちがなんだか不安定なんですよ。これじゃ、相手が安心しません」


「ふーん。……そういう頼りない感じがいいのかな」


「ん……、え?」


「おまえみたいなのが好きな女もいるってことさ」


「そうかな。俺、あんまりモテないですから」


「自分じゃ気がついてないんじゃないの? おまえって、責任感なしに女をひっかけてるよな」


「――なんか、嫌ないい方ですね」


「あ、ごめん」


 ユブセは冗談めかして俺を非難しておいて、もう関係ないという態度で眼を逸らした。その表情に一瞬老醜の様が見えたのを、俺は見逃さなかった。

 なにかが彼を打ちのめしているように思えた。



 俺が単に知っているというだけの女たちの中に、ユブセのフィアンセも含まれる。なんどか言葉も交わした――いや。偶然という機会があって、ふたりで食事をしたことがある。一度きりだ。彼女がいわない限り、ユブセは知らない。


 だが、ユブセはいったい何の話をしようとしているのだろう。

 優越者の、見たことのない側面が覗いているような気がする。そこには直視し難いおぞましいものが息をしているのではないのか?


 俺は、ユブセの表情の変化を見て、彼の目的が分かりかけたような気がした――俺をなぜ山に誘ったのか。


 ユブセのフィアンセという肩書のあの女が、いたたまれなくなって吐き出し、その言葉がユブセを揺り動かしたのかもしれない――で、なければ、俺なんかを個人的に誘うわけがない。俺はユブセにとって取るに足りない連中のひとりなはずだ。



 もしかすると、俺は、彼に不意打ちを食らわしたことになっているのか?

 そうなると俺自身はユブセにとって、思いもよらない敵ということになる。


 ――いや。


 どうなのだろう――まったく! どう考えても俺がユブセの敵にはなり得ない。


 ユブセのフィアンセという以外、俺にとって何の意味も持たない女が中心にいて、ユブセと俺が敵同士になる理由は何もないのだ。

 それでも俺のような奴が目障りなことをしたのだとすれば、ユブセは俺に対して何かをしなければならない――『思い知らせてやる』 ユブセはそう考えているはずだ。


 ユブセの心を、俺という存在が侵しているということか――彼にとってはそういう現実にも我慢ができないだろう。


 だからこうやって、ユブセは俺に嫌味をいい、俺の自尊心を打ち砕き、元の優位に立ち戻りたいのだ。



 俺にはもともとユブセと戦うための武器はない。


 いつもの俺の愚痴と哀れっぽい表情が、あの一時、女を惑わせたとしても、夢みたいなものだ。女も俺もすぐに醒める。


 俺には情熱を持続させる気力はない。自分への自信のなさが、恋愛という感情の発露を妨げている。俺には誰かに愛される資格などないのだ。自分自身がいちばんよく知っている。



 俺は黙ってユブセが投げかけてくる次の言葉を待つ。


 ――ハンバーグに混ぜ込んである香辛料が気になる。あとを惹く香りだ。俺の食欲はまだ満たされたわけではない。


 ユブセが抱えている憂慮になど、俺は関わらない。それはユブセと、ユブセが自分の所有物だと信じている女との問題でしかない。

 それに、俺をこういうかたちで相手にしたところで、ユブセの気が鎮まるとは思えない。

 とにかく、これはユブセのひとり舞台。俺は決して彼と同じ板には上がらない。



「まさか、おまえだとは思わなかった……」

 ユブセが、どす黒い血の匂いのする痰を吐き出すように言葉を投げかけてきた。


 俺の予感は的中――罠にはまった獣の気分だ。


「害のなさそうな……。そういう奴にこそ気をつけるべきだったんだな。俺はまったくバカだ。正直すぎるってのも厄介だぜ。相手かまわず自分のことをぶちまけるなんてのは、俺から見れば笑いものなのによ。女はそんな奴の前で勝手にいい気になる。自分にだけ打ち明けてくれてるなんて思いこむ。それで、わたしならなんとかしてあげられるわ、だろ――まったく、うまい手使うよな。天才だよ」


 ユブセが愚痴を吐き散らしている。そういう姿を見るのは初めてだ。


 俺は幾分たじろぎ――だが、すぐに納得する。山が彼をそう変化させた。そのために俺たちはここにいるのだ。


 バカなのは俺か――ユブセか――女か――誰だろうと、そんなことはどうでもいい。ユブセの俺に対する言葉は地に落ちて蒸発する。俺はそういう感情的なものをいっさい受け付けない――頭の芯が冷えていくのを感じる。



 眼の前にならんだ、食いかけの聖餐。



 ユブセは刃物を握りしめ、捕えた俺の皮を剥ぎ、抉りだした心臓を十字架に打ち付けるつもりだ。

 俺が悲鳴をあげ泣きでもしたら、ユブセは満足するのだろうか。


 だが俺は声もださない。

 ユブセは自分の感情に溺れ、ひとりで立ち回り、なんの甲斐もなくただ疲れ果てるだけだ。



 俺は箸を持ち直し、褐色の芳ばしい装いをまとった肉の塊に手を伸ばした。


 俺の動作を見てユブセは言葉を呑みこんだ。


 俺が、ゆっくりと箸を運び、肉の塊を口に入れるのを見て、ユブセは急に笑いだした。


 俺はユブセを見ながら、舌の上で崩れるようにとろける肉の感触を味わい、鼻腔いっぱいに広がる複雑な香りを堪能した。――どんな思いでユブセがこれを作ったにしろ――。


 ユブセの哄笑は谷底に吸い込まれていく。



 やにわに風が吹きはじめた。


 弁当を包んでいたバンダナが風にもてあそばれ、飛ばされそうになるのをユブセが掴んだ。

 俺はバンダナがはためくのを見て、それと同じものが女の髪を束ねていたことがあったのを思いだした。


「芝居がかってる……」 頭の中身がするりと舌に落ちてくる。


「なんだ?」 気色ばんだユブセが居丈高にくってかかる。


 俺にとってユブセはもはや地上の人間には見えない。俺の気持ちは急激に変化する。そういう状況をユブセが創りあげたのだ。

 俺は自分の感情の変化には逆らわない。


「芝居っ気たっぷりなのはお前のほうだよ。いつだってな。女の前じゃ、手負いの獣のふりか? 女に傷を舐めさせるなんてのは、さぞいい気分だろう――おまえには、プライドも何もないらしいな」


 プライド? そうか。俺は稲妻のようにひとつのことに気付いた。


 地上で俺に見せていたユブセの姿は、プライドという衣装を身に着けた仮の姿。ユブセはその重い衣装を脱ぐために山に登らなければならない。

 地上では自分を演出し、格好をつけ、創ったセリフをしゃべる。

 彼の云う『プライド』が創りあげた衣装が肉体の一部と化し、皮膚や肉や血の通った何かが脱いだ衣装とともに剥がれ落ちる。


 ユブセはそういう姿を俺に示し恐れさせるために山に登った。


 じゅうぶんに俺は恐れている。俺が尊敬に近い想いを抱いていた男の正体を見せられて、恐れないわけがない。


 ユブセにも弱い部分があったということか。


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