2、

 景観は良かった。

 さらに高い峰がいくつも重なる。それらを訪れるための入り口に立っている。


 道の片側は垂直の壁。その岩肌に穿たれた穴に杭が刺し込まれ、見晴らし台を支えている。

 見晴らし台は山道から二メートル下にあり、そこへ降りるための梯子が、道に突き立てた杭にロープでつないであった。


 見晴らし台に乗ると空中に浮かんでいるような感覚を味わえた。

 スリリングだ――幾本かの杭に命を預けている。


 ユブセは手摺にもたれかかり身を乗り出して谷底を覗いている。

 その様子を見ただけで、俺は首筋に寒気が走った。


 木材の様子を見れば見晴らし台が決して新しいものではないということが分かる。動くたびに軋むのも気になる。


「川が見えるぜ。白い糸みたいだ」

 下を覗きこみながらユブセがいった。


「さっき見てきた川?」


「そうさ。あの川の上流が見える。ここまで来ると音も聞こえないな」


 俺は、登りはじめる前にその川で手を洗った。漂白していない自然の水の感触がうれしい気がした。

 歩きだすと川の流れからは遠ざかったが、水音はずっと聞こえていた。


「けっこう高く登ってきたんですね」


「傾斜が緩いからあんまり感じないだろ? その代り時間が掛かってるよ。帰りは、ここから降りれば一気に戻れる」


「え!? 飛び降りるんですか」


「アホぬかせ。ロープ垂らすんだ。壁を蹴りながら駆け降りる。いちおう、軍手とロープは持ってきた」


「――マジ!?」 俺は口の中で呟いた。


 俺は手摺には近づかない。一歩で梯子に届くところに立っている。梯子と見晴らし台がつながっていないことも確認してある。


「おい。おまえもここまで来て、下見てみろよ。絶景だぜ」


「こっちでも十分いい眺めです」


「――怖いか」 そういってユブセは振り返って俺を見た。

 その口元に、今まで見たことのない種類の笑いが宿っているように見えた。


 俺は一瞬あっけにとられてユブセを見つめた。


 なにかが、ユブセの性格を変えた。――いつもと違う環境のせいか?

 考えてみると、俺はユブセとふたりきりになったことがなかった。こうして彼だけに注目し、個人としてのユブセを見るのは初めてのことだ。



 つまり、俺はユブセの表向きの面をしか見たことがない。


 都会の暮らしの中で自身を演出している人間たちのことが頭に浮かぶ。こういう場所で、ふと、正体が現れる――ユブセもそんなところか。



「ちょっと、怖い気もしますよ。手摺が、二人分の体重を支えきれるとは限りませんし……」

 俺は、ユブセの揺さぶるような質問に答えている。


「慎重派だな――おまえは生き残れるよ」

 そういいながらユブセは景観に視線を戻した。


 表情は読み取れないが、言葉に棘が含まれているのを感じる。

 彼にはなにか触れてはいけない部分があるのかもしれない。



 俺は覚悟を決めて、バックパックを肩から外し、見晴らし台の隅に腰をおろした。――そんなに簡単に崩れ落ちることはないはずだ。そう信じよう。

 崩れ落ちる瞬間を経験する羽目になったとしても、予兆を捉えれば、逃げる時間はある。たいてい変化とはそういうものだ。


 ユブセも手摺から離れ、床に座り込んだ。

 自分のバックパックを大事そうに引き寄せている様子は、いかにも人の良さそうな山男といった感じだ。

 俺に笑いかける表情も普段と変わらない。むしろ優しいくらいだ。


 つい今しがたの彼の変化は、俺の思い過ごしか――慣れないロングウォークで多少疲れているのかもしれない。俺は二の腕で額の汗をぬぐった。



「腹減ったな。昼飯にしよう。約束のもの、ちゃんと作ってきたから――ゆうべ、腕を振るったんだぜ」

 そういいながらユブセはバックパックの中を覗き込み、ゴソゴソと包みを取りだした。


 黄色いバンダナで四角い箱を包んである。

 ユブセは腕を伸ばして、その包みを俺の膝の前に置いた。


 そのとき一瞬、見晴らし台が左右に揺すぶられたような気がした。

「はぁっ!」 無意識に俺の喉から声が漏れた。同時に腰が浮く。


「どうした?」 ユブセの顔には何もなかったと描いてある。


「揺れた――眩暈みたいな感じがしたんです」


 それを聞いたユブセの口元が、微かに歪んだ笑みをかたちづくっている。

「場所、移ろうか」


「い、いいえ。いいです。大丈夫」

 俺は息を吐きながら再び腰をおろす。


「おまえ……高所恐怖症なんじゃない?」と、ユブセがいった。


「そうかなぁ……。そんなことないと思いますけど。高層ビルの窓から外見ても、なんともないですよ」


「そりゃあ、ビルの中だから。落ちる心配ないもんな。でもさ、ビルごと倒壊する可能性だってあるじゃないか」


「そんな。まずありませんよ」


「可能性はゼロじゃない」


「確率低いですよ」


「低くはない。この見晴らし台が落ちる可能性と同じだよ。五分五分」


「……冗談ですか」


「冗談? 考えたら分かることだ。可能性というのは常に五分と五分なんだ」


 俺はしばらくのあいだ口を半開きにしてユブセを眺める――そういうことなら、俺は曖昧な笑顔をつくって頷くしかない。



「さ、食べようぜ。名シェフが腕によりをかけたんだ」

 ユブセは包みを解きはじめている。


「特製の握り飯。特製の卵焼き。それに、特製のハンバーグだ。サラダのドレッシングはシンプルにフレンチ。これが一番合うと思うんだけど――肉料理には」


 料理はユブセの趣味のひとつ。自ら名シェフというのも納得できるくらいだ。料理本に首っ引きで作ったようなにわか料理とは一味違う。

 両親が共働きで四人兄弟の長男という条件がそうさせたらしい。


 俺にしてみれば、そういう環境でファストフード漬けにならなかったところがすごいと思う。


 ユブセは、俺がいつも美味そうに食うといって嬉しがる。それで時々、その他大勢のひとりとして手作りの飯をおごってもらうことになっている。



 俺は、ユブセのコメ料理が好きだ。鮨や、サフランライス付きのカレーや、リゾット、ピラフ……。パエリアの時は本気でぶっ飛んだ。あんなのは一生のうちで何回食えるだろう。オマール海老の色っぽい腰つきが眼に浮かぶ。



「ユブセ先輩は女いらずですね」

 握り飯をひと口頬張って、俺は唸った。焼いた川魚の芳ばしい香りと酸味のきいた漬物がいい具合に混じりあって、鼻腔を刺激している。


「バカいうなよ。女は要るよ。料理するのが女の仕事ってわけじゃないだろ」


「でもやっぱり、女は料理できたほうがいいですよ。俺の夢です」


「つまんない夢だな。女のコックでも雇えばいいじゃないか」


「そういうんじゃないですよ。自分のために料理してくれてるという姿が理想なんです」


「料理が下手でも?」


「そのうち上手くなりますよ」


「ああ。――女の味は、それだけじゃないしな」


 俺はちらっと上目づかいにユブセを見る。

 間近に見るこいつの皮膚に俺は微かな嫉妬を感じている――この色はなんと表現するのだろう。太陽を吸収し、生き生きと輝き、同時に素焼きの陶器のような優しさを感じさせる。

 汗に濡れた黒い髪が一筋、緩やかなカーブを描いて額に落ちかかっている。


 こういう男といるとき、女はどんな言葉を使うのだろう。


 鍛えられた身体と、生きることへの自信と、すべてを持っている男は、女に対してどんな言葉を使うのだろう――いや、言葉を必要とするのだろうか。


 ――女の味? ユブセにとって、その意味は軽い。たぶん……。



 俺は、さっき出会った、女だった『物』を思い出した。

 喰いちぎられた腹の皮膚。おそらく何かがすでに消化している臓器。その味はどんなだろう。



 俺はユブセが腕によりをかけたハンバーグを頬張った。

 豊かな肉汁や複雑に絡み合う香辛料を味わいながら、山の景観に視線をとばす。


 この雰囲気は、確かに気分転換にはなる。ここにきて分かったことだが、俺が一緒にいる相手は、山なのだ。他の人間は関係なくなる。

 山に入った途端に自身への意識が強くなる。山とは、そういう気分にさせてくれるところらしい。


 だからユブセはそういうことをよく知っていて、山に執着するわけなのか。



 だが、よく分からないこともある。

 ユブセにとって俺は常にその他大勢のひとりにすぎないはずだ。

 孤高の人物然としているユブセが、なぜ俺なんかを誘ったのだろう――俺はなぜ、ユブセの誘いに乗ったのだろう。


 ユブセは、俺のどういう姿を見ているのか。

 彼の前にいるときの俺が、精神安定剤を与えられた猫だと知っているのだろうか。何も知らないのなら、俺を、扱いやすいバカだとでも思っているに違いない。



 俺は、自分でも嫌になるほど臆病だ。余計な心配ごとが絶えずつきまとっている。その対象は関わりあう人間たち。


 弱いものが不利な立場に立たされるという法則――俺には自分の足場を確保する自由はない。


 

 ユブセのおかげで俺はこうして来るはずのなかった場所に到達し、飢えた腹を満たすことができている。

 俺が彼に対してできることは何もない。



「おまえ、付き合ってる女がいるのか?」

 卵焼きをつまみあげながらユブセがいった。


「特別に付き合ってるのはいません。友だち程度なら……」

 俺は答えながら視線を彷徨わせている。そのとき、不可解なものが視界に入った。俺は食事の手を止め、それを凝視した。


「あれ、なんだろう」

「え?」

「そこの手摺の所に、なにかくっつけてありませんか」

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