Cross《クロス》

織末斗臣

1、

 生い茂った夏草がその姿を覆い隠し、草いきれが腐敗していく気配を消していた。誰かが故意にそのアイデンティティの一部を取り去り、他にも、飢えてその肉を必要としたものが持ち去った痕がある。


 背丈よりも高く茂った草を押し分けて踏み入った場所で、俺はその死体に出会った。――驚きはしたが、叫び声をあげるような種類の驚きではなかった。


 頭の天辺に穴をあけられ、芯に氷を落とし込まれた感覚――頬から首筋にかけて粟粒のような鳥肌が立っているのが分かった。


 俺は急激に吸い込んだ空気を肺に溜めたまま、意識して瞼を閉じ、それから勢い空気を吐きだした。


 一瞬で催していた尿意が失せた。


 身体中の神経が頭の中の一点に集中した。――俺は目の前にある死体を観察する。どんな状況であろうと、俺は目の前に在るものをじっと観察する。

 そして俺なりに考える。


 驚きも、恐怖心も、俺の好奇心の前では小さくなって逃げ出していく。



 まだ新しい死体。首と足は切り取られて無くなっている。うつ伏せになっているが女性だと分かる。腹の横から臓器を牙で食いちぎられている。


 哀しい死体――張りつめた皮膚はまだ少しの衰えも見せていないのに、だがもう衰えていくための時間も奪われてしまった。


 少し前まではいろいろなことを経験していたであろう手には、ネイルの色が鮮やかに浮き上がっている。

 ネイルの先端が汚く剥がれ落ちているのは、抵抗の跡かもしれない。


 とにかく、彼女が身に着けているのは爪に施した装飾だけ。


 香水もつけていたかもしれないが蒸発してしまった。


 今はそれ以上の芳しい鎮魂の香りが彼女を包み込んでいる。肉の塊を水と土に帰すものたちが彼女を支配している。


 俺は一時いっとき『死』に対して祈りに似た気持ちを感じた。人生のどこかで不用意にインプットされてしまった感覚だ。

 『死』というものへの恐怖と同時に、祈るという逃げ道を教えられた。



 俺は死体から目をそらし、場所を選んで、よみがえった尿意を解決した。

 繰り返される代謝行為に改めて喜びを感じている。――『死』を目の当たりにしたせい――生き残った人間が持つ純粋な気持ちだ。


 それから俺は死体に背を向け、再び草を押し分けて元のルートに戻った。




 背負ったバックパックを樹の幹に押しつけた格好でユブセが待っていた。


 今度は俺と入れ替わりに、ユブセが草むらに押し入っていった。俺はユブセが立っていた場所に同じように立った。


 緊張の解かれた膀胱と、奇妙に静まりかえった頭で、俺はやけにゆったりとした気持ちになっていた。木々のあいだから吹いてくる風を心地よく感じ、見上げる空を美しいと感じている。


まもなく、ガサガサと草を擦りあわせる音を立ててユブセが戻ってきた。


「おー。すっきりした。からだが軽くなった――おい、疲れてないか」


 ユブセはいつもの調子で声をかけてきた。


「ぜんぜん。気分いいですよ。山は久しぶりだし、空気は良いし……」


「おお。その調子! さて進もうか。見晴らし台まで、七、八キロってとこかな」


「はい」


「景色良いぜ。絶壁に板を張り出して作ってあるんだ。落ちたらイチコロだけどな――手摺とかが腐ってなきゃいいけど」



 ユブセは死体を見なかったらしい。


 俺たちはまた山道を歩きはじめた。

 緩やかな上りがずっと続いている。思ったよりハードだ。


 ユブセはまったく疲れを見せず、ペースを崩さない。週末には必ずといっていいほど、どこかの山を歩きまわっているらしい。



 俺が大学の登山同好会に入ったのは、ちょっとした行き掛りだった。山歩きは特に好きというほどではないが、気分転換にはなる。


 ユブセは大学院で教授の助手をやりながら、OBとして同好会の面倒も見ている。中途半端な立場の俺たちにとっては、理想と憧れ的存在でもある。



 そのユブセとふたりきりで山を歩くのは初めてのことだった。


 俺はずっとユブセの背中を見ながら、さっきの小休止までは地上での雑多な事柄に想いを馳せていた――今はやはり、偶然出会った死体に想いが捕られている。


 俺はどうすべきか――あの死体に対して、俺は何かをするべきなのだろうか。


 だが、ユブセには云わないほうがいいという気持ちはあった。彼が見ていないものをわざわざ知らせる必要はない。

 せっかくの彼の楽しみを奪うことになるだろう。


 滅多に彼のほうから人を誘うことはないのに、俺を山歩きに誘ってくれた。

 俺がくよくよとくだらない人間関係について悩んでいるのを、山にでも登って気分転換をしたらどうだといってくれた。


 俺はユブセの誘いを喜んで受けた。


 彼は、俺にあわせてなるべく楽な登山を選んでくれるともいった。

 僅かな征服感を味わい、十分な満足感を得られる山を、と。



 夏の盛り、街は茹るような不快な熱気に満ちている。吐き出されるあらゆる種類の排気熱――空調や車や生きている人間たち。物を生産するエネルギー。捨てられたものが朽ちていくための発熱。摩擦で生じる電気を帯びた熱。


 俺は時々、それらの強烈な力に圧倒されて身動きが取れなくなる。


 慰めが必要になり、俺の訴えるような表情が誰かの感情をつかみ取る。必ず誰かが、動けないで苦しんでいる俺に手を差し伸べてくれる。


 強い人間になりたいと望んでも、どうしていいのかさえ分からない。

 あのユブセのように、ひとりで何でも決断し行動できる人間がうらやましい。



 ユブセは振り返りもせず一定のペースで黙々と歩き続けている。


 彼は今、いったい何を考えているのだろう――俺はいつだって自分の気持ちを洗いざらいぶちまけてしまうが、ユブセが自身について話すのを見たことがない。


 彼は常に静寂な空気を漂わせ、迷いのないシャープな行動をとる。一瞬に考えつく奇抜な発想は言葉にするには複雑すぎるのだろう。

 ユブセには迷いもなければ失敗もない。そつなくこなすという言葉は嫌らしく感じるが、ユブセにはぴったりだ。

 ユブセが嫌な人間という意味じゃない。他の言葉が思い当たらないだけだ。


 とにかくユブセの云ったように、山には人間の棲む猥雑な場所を忘れさせてくれる何かがある。

 いずれにしろ生きていくための場所には戻っていくが、山で浄化された人間の戻る次元は少し違うのかもしれない。


 俺は汗をかき、息を弾ませ、ユブセの足取りにあわせて歩を進める。

 今までも、いつもこうして誰かの歩調にあわせてきたような気がする。


 俺は何か道標になるものが目の前にないと不安でたまらない。人に云われて従っている自分を哀しいと思うこともあるが、指示のない行動は闇の海に放り込まれたように恐ろしい。



 どこからか聞こえていた水の流れる音が少しづつ遠くなり、木立がまばらになっていった。

 ユブセの歩調が緩み、上りがややきつくなった直後に、急に目の前が開けた。


 ユブセと俺は連なる頂のひとつに達していた。




 

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