第1話 その2 最悪な再会

 一番辛かった思い出。それは小学校六年生の算数の授業の時間だった。私はその頃には周りに不愉快な言葉を投げかけられていた。先生はあまり人望のない人で、クラスは授業中にも関わらず、話し声で溢れていた。既に中学受験することを決めていた私は、授業の問題は簡単で既に解き終わっており、塾でもらった宿題をこなしていた。いわゆる、内職っていうやつだ。

 それを隣の男子に見つかった。それが、戸津だった。


「あー! 太川お前何してんの、授業中に! いっけないんだー!」


 彼がそう叫ぶと、教室が一瞬静まり返り周りの視線が自分に集まる。私は恐怖で一気に動けなくなった。先生に叱られるとか、そういう怖さではなく、またいじられるという恐怖のせいで思考は停止した。


「なになにー? 頭いいの見せびらかしたいの?」


 戸津がそう放ったことで、他の席から男子がわざわざ歩いて私の手元を覗きこんでくる。その手には下敷きが握られていたのを私は見逃さなかった。


「うっわ、近くに来るとくせー! デブってなんでこんなに臭いの?」


 歩み寄ってきた男子が笑ってそう言うと、下敷きでわざと私を煽った。それから戸津もこう言った。


「本当だ! くっせー!」


 けらけらと笑う男子達。何も言わない先生。私には関係ないと見向きもしない人達。

 辛かった。悔しかった。私は鉛筆を握り締めたまま、ぴくりとも動くことができず、ただ静かに涙を流すことしかできなかった。

 泣いても、容赦なかった。泣くと嘘泣きだと罵られ、ブスがもっとブスになると、そう嘲笑われる。

 この時、私は初めて授業中に立ちあがり、教壇に向かう。先生に一言「保健室行ってきます」とだけ告げ、「わかりました」とだけ了承を貰うと、早足にその場を去った。

 保健室に向かうつもりだったが、気付けば屋上にいた。授業中だから、誰もいない。

 私は声に出して、泣いた。心のバランスが完全に崩れた瞬間だった。

 それから中学受験までは私は笑うことさえもできなくなった。何をしても、私がデブでブスであり続ける限り、私の行動は全て否定されると、そう悟ったからだ。感情を殺して、ただ黙々と勉強する。それが唯一の安定剤だった。





 私は当時のことを思い出し、目を瞑っていた。


「優奈っ。寝てるの?」

「わ、春ちゃん。ごめん」


 春ちゃんが座りこんで、机の上に顎を乗せ、顔を覗き込んで話しかけてきていた。目を開けて、返事をすると、手を振って起きていることを示す。


「優奈、今日は部活なんだけど来る?」


 春ちゃんは合唱部だ。帰宅部の私は時々助っ人で合唱部の手伝いに入っていることもあるため、春ちゃんの部活の面子とは顔馴染みである。

 朝からの一連のことで気分が滅入っている私は苦笑して首を横に振る。


「ううん、今日はパス」

「オッケー。昼ごはんは学食行くでしょ?」


 立ち上がった春ちゃんに尋ねられ、横をちらっと見やる。突っ伏して寝ている戸津がいる。


「うん、その時さ、相談乗ってほしい」


 こそこそと春ちゃんに合図すると、彼女も黙って親指をぐっと立てた。


「じゃあ今から準備するから」


 そう言って鞄に荷物を詰め始めた……その時だ。


「細川、あのさ――……」


 ぴたりと私の動きは止まる。恐る恐る横を向くと先程まで寝ていた戸津が頬杖をついてこちらを見ていた。


「いつまで無視すんの?」

「ご、ごめんなさい……」


 思わず出てしまった言葉。蘇る小学校の時の思い出。


「あー……まあそれより話しがあるんだけどよ。えっと……」


 戸津は春ちゃんに目をやる。


「細川の友達だよね?」

「あ、えっと……。斎藤春香です。よろしくです」

「ああ、こちらこそよろしく。斎藤さん、ちょっと細川借りていい?」


 春ちゃんが私に視線を向けてくる。


「えっと、少しなら。一緒にお昼行く予定だったし」


 ナイスフォロー春ちゃん。私は「そういうことだから」と、戸津に言うと、彼も「わかった」と頷く。

 春ちゃんは先に学食に行っているねとだけ残し、私はいったん椅子に座り、戸津と二人で向き合って話すことになった。


「で、話ってなんです?」


 同級生に対して敬語を使うのもどうかと思うが、私は怖くてため口なんてきけない。私の話し方に違和感を持ったのか、彼は口を開くとこう私に言ってきた。


「ため語で話さないか? 同級生なんだし」


 怖いから無理です、なんて言えず、少しずつ慣れて崩していくからと話し了解を得た。それから本題へと入っていく。


「俺が中学から、親父の都合で別のところに行ったのは知ってるか?」

「知って、ます」


 そう、戸津は小学校を卒業すると、引っ越ししていった。それを知ったのは中学上がってからだ。私の地元では時々、同じ小学校出身の子と顔を合わせることがある。その時偶然、比較的仲の良かった女の子と話が弾み、戸津のことを聞いたのだ。中学受験をして、小学校の人達がどうなったかは細かいことはよく知らないが、こうして情報や噂話は時々得ていた。


 当然だが、戸津以外の男子と道端やお店で会うこともままあり、私はその度に隠れたり、逃げ去ったりしてやり過ごしていた。だが、確かに、戸津に会うことはここ三年間なかった。

 最も苦手としていた人物が目の前から消えたことで、私は心の平常を取り戻し始めていた。だから余計に、私はその後に続く言葉に、めまいを覚えそうになる。


「俺も中学で色々あってな。戻ってきた」

「戻ってきた?」

「ああ、前住んでたマンションにな」


 ということは、それは――

 色々な可能性が頭を過ぎる。戸津も、地元は同じだったはずだ。学校の行き帰りにばったり出くわすことも増えるのだろう。それだけならまだしも、家の周りでも会ってしまうのかもしれない。あり得ない。学校生活だけならまだしも、私の個人的な生活範疇にもこいつが入ってくるのか。


 私は感情を押し殺し、無表情で対応する。それが私にできる今の表情だ。ここで驚いたり、悲しんだりしたらつけ上がられる。


「いや、びっくりしたよ。お前が、この学校にいるなんて」


――それは私の台詞だ。というか、お前が私の学校生活に介入してきたんだ。

 そう言えたらどれだけ楽だろうか。ため息をつきたい気持ちも抑え、私は続きの言葉を待った。


「俺さ、中学行って、いじめにあったんだよ」

「え?」


 突然のカミングアウトに私は思わず声を漏らす。


「いや、いじめっていうのかな。なんか、小学校からエスカレーター式で中学上がってるじゃんか? うまいことできあがってる輪に入ることができなくてさ。気付けばはぶられていたっていうのが事実かな」


 そういうことか。私はなんとなく理解した。戸津が地元に戻ってきたのは、小学校の友達がいるからだ。そうすればはぶられることもない。

 ふと私は口元が緩んだ。逃げてきたんだ。私と同じじゃないか。

 ざまあみろ、と私の脳が呼びかける。今自分は最高にブラックモードだ。

 だが一方で疑問もある。なぜ少し離れたこの高校に? しかも結構難易度の高い高校だ。


「なんで、この高校を選んだんです?」


 思い切って疑問をぶつけてみる。まさか私が質問するとは思ってなかったらしく、驚いた表情を一瞬される。


「あー……小学校の奴らがいないところに行きたくてな。成績も悪くなかったし」

「なんで? 仲良かったじゃないですか」

「まあ、正直な事を言うと、あいつらといると思い出すからだな」

「何を?」

「細川にした事をだよ。それにあいつらといたら、いつまた俺がそっち側に回るかわかったもんじゃないから。もう繰り返したくなかった」


 驚いた。思ったよりも真面目な理由だった。普通、いじめられた側はずっとそのことを覚えており、いじめた側と言うのは忘れてしまうもの。だけど、彼は違うのか。ほんの少しだけ見直した。

 まあ、だからと言って、過去が変わるわけではない。許すこともできない。


「それで、この高校に来たら、細川がいたってわけだ。これも何かの縁だな」


――こんな縁、私は欲しくなかった。

 喉元まで出かけたものをぐっと飲み込む。

「ずっと謝りたいと思ってたんだ。言葉だけじゃ信じてもらえないと思う。だから、俺に出来ることがあったら言ってほしい」


 至って真面目な顔をして言うものだから私も言葉を返す。


「それって罪滅ぼしってこと?」

「ああ、そうだ」


 ならば、彼にできることは一つしかないだろう。私はそれを提案する。


「は?」


 戸津は眉間に皺を寄せた。やっぱり、怖い。調子に乗りすぎたか。でも、これが私の本心だ。


「それ本気で言ってるの?」


 こくりと頷く。相手は、納得していないようだ。


「『話しかけるな』っていうのがお前にとって罪滅ぼしなのか?」


 私は何度も確認され、だんだんと恐怖心が勝ってくる。目が見れなくなった。

 だが次の言葉で私は一気に頭に血が上った。


「……細川さ、それでいいのか」

「は……?」


 反らしていた目を戻し、はっきりと目の前のこいつに目をやる。


「男嫌いなんだろ?」

「っ……」


――ふざけるな! 一体全体誰のせいでっ!

 喉元まで出かかって、私は堪える。ダメだ。ここは我慢しないと、私の平穏はやってこない。


「もう、いいから。関わってこないでっ」


 堪忍袋の緒が切れる寸前だった。突然ため語を聞いた私に戸津はきょとんとする。

 だめだ、だめだだめだ。このまま話していたら。私が私でなくなる。

 胸のあたりに暗い渦が広がっていく。正常な思考がなくなっていくのを感じる。感情に負けるな。もう少し、もう少しでこいつとの話し合いは終わるはず。


「お前の男嫌い、俺に直させてくれないか」

「無理」

「え?」

「無理に決まってる。だって、私は戸津のせいで、こうなったんだから」

「そうなのか?」


 その一言で、私は我を失った。


「そうなのか? だって?」


 ダメだ。やめろ、私。


「私の人生を狂わせたのは、誰だと思ってたの? 私がわざわざ遠い中高を選んだ理由はなんだと思ってた? 全部はあんた達のせい。あんた達がいなければ、戸津さえいなければ……」


 それだけ言って、感情がおかしくなった。泣くな。こいつの前だけでは絶対泣いたらいけない。

 私はそれだけ言うと、立ち上がり荷物を手に取る。限界だった。胸の奥が締め付けられる。嫌な思い出が頭の中を駆け巡る。


「お、おい。待てよ。話しはまだ終わってな……」


 戸津の制止を聞かずに私は早足でその場を去り、学食へと向かった。早く、早く春ちゃんのところへ――

 私の高校生活は最悪な幕開けだった。

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