第2話 その1 ダイエットの決意

 月曜日の朝が来た。憂鬱だった。また今日から隣に戸津がいると思うと気持ちが重くなる。

 同時に凄く眠い。時計は五時半を指している。私の高校は電車を乗り継ぎ一時間半の場所にある。朝のホームルームは八時半から始まるので七時に出ればいいのだが、私の生活は高校から一変した。

 そう、七時頃に出ると、戸津と出くわす確率が上がるのだ。学校の往復まで一緒とか、それだけは避けたかった。だから私はわざわざ五時半に起きて、六時半前には家を出ていた。戸津さえ来なければ、私だってこんな眠い思いをしなくて済んだのに。それに春ちゃんと登校することもできなくなってしまった。単純に悲しい。


 だが、あれから戸津は私に話しかけてこなくなった。それは唯一の救いでもあった。

 洗面所へ向かい、鏡を前にする。

 顔や腕がぱんぱんに膨れ上がった姿が目に入る。私は、自分の姿が大嫌いだった。頬と瞼についた肉が、目を小さく見せている。この紺色の可愛い制服だって既存のサイズが入らず注文しないといけない。


 わかっている。戸津が全部悪いわけじゃない。こんな見た目をしている自分が悪い事もわかっているんだ。一五七センチ九三キロ。小学生の時から順調に増えていく体重と反比例して、私は自分の事が嫌いになっている。

 嫌いになっていく自分が嫌でダイエットだって何度かやってみた。でもその度に挫折して、私は結局何も変わらなかった。


 変わりたいと、そう思う気持ちはあった。一生男嫌いでいるわけにもいかないと、私は気付いていた。大学にだって入りたいし、勿論その後は社会人にだってなる。男と関わらないで生きていくなんてきっと無理なんだ。

 それに――

 私は身支度を終えると、手帳を開く。四月十七日。学校が始まってちょうど二週間だ。今日の日付に丸をつけてある。週に一回の楽しみだった。今日は家庭教師の『お兄さん』がやってくる日だ。


 お兄さんの名前は、関根智幸(せきねともゆき)。私が幼稚園生の頃から近所で仲良くしてもらっている人だ。今は大学四年生で就職活動をしているらしい。お兄さんは、中学一年の頃から勉強を教えてもらっている。大学も名前を聞けば誰もが知る、一流の私立大学だ。小さい頃から優しくて、私の悩みごとにも相談に乗ってくれる、私の憧れの人。気付けば、いつかお兄さんと同じ大学に行きたいな、とそう思うようになった。だから勉強も頑張れるし、何よりお兄さんと勉強するのは楽しい。

 私が、お兄さんを、男の人と意識するようになったのは、中学生の時だった。男の人は嫌いだけど、お兄さんだけは特別なんだといつからか思うようになっていた。

 お兄さんに彼女ができたという話を聞く度に悲しくなって泣いたこともあった。最近は付き合っている人はいないらしい。


 そして、私が小学校の時にいじめられていたことを知っているのは、春ちゃん以外にお兄さんだけ。お兄さんがいなかったら私は学校に行かず引きこもっていたかもしれない。お兄さんは私の心の支えだった。

 そんなお兄さんに今日は勉強を教えてもらえる日。毎週この日は楽しみで仕方ない。今月は既に、二回目。一回目は先週の今日だ。先週は勉強メインというよりも、延々と戸津についての相談を乗ってもらっていた。幾分か心もその時軽くなった気がした。やっぱりお兄さんは凄い人だ。

 手帳から顔を上げると、時計に目をやる。


「あ、やば。学校行かないと」


 もう少しで六時半になってしまう。私は荷物を持つと、学校へ向かった。

 それから、今日もいつもと変わり映えのない一日が過ぎていった。ただ一つを除き。


「おい、戸津。お前彼女できたんだって?!」


 放課後帰り支度を始めていた私の横で男子達がうるさく騒ぐ。戸津のことなんか何も知りたくないのに、割と人気者なのかよく私の横で男子達が彼についての情報を漏らしていく。戸津は水泳部に入り、そのマネージャーの女の子と付き合いだしたらしい。マネージャーなら私も知っている。同級生の細身で可愛い女の子だ。


「お前羨ましいな! 本当! あの子狙っている奴多かったんぞ」


 どうでもいい情報を次から次へと漏らしていく男子達。

 知ってる。男子はそういう子が好きなんだと。私には関係のない話だ。

 荷物を持って、私は彼らの言葉に背を向けて教室を後にする。校門を出て、スマホを確認するとお母さんからメッセージが入っていた。


『今夜はカレーにするから具材買ってきて。ルーとじゃがいもと人参よろしく』


 最後にお母さんのにっこりマークがついており、私はそれに『了解』と返事する。学校帰りに、地元のスーパーの前を通るのでよくお使いを頼まれる。

 その後に私はお兄さんにメッセージを送る。


『スーパーに寄ってから家に帰ります』


 しばらくして、電車に乗った頃にお兄さんから返事が来る。


『何時頃駅に着くの?』


 私はそれに返答を返すと、


『わかった。僕もその頃駅に着くから一緒に買い物して、それから一緒に家に行こうか』


 と返事がきたもので、思わずにやけてしまった。こういうことも度々あるので決して珍しいわけではないが、私にとっては一時のデートのように感じてしまい、嬉しくなる。


 いけない、いけない。緩んだ頬を元に戻そうとする。唇を噛んで、目を瞑って静かに深呼吸をする。それから私は目を開けた。

 が、ここで私は不愉快な物を見てしまう。


 少し離れた所に、戸津と、水泳部のマネージャーが乗っていたのだ。向こうは私の視線には気付いてないらしく何か話しこんでいる。

 私は気付かれないように車両を変えようと移動する。これからお兄さんに会うというのに、戸津に見られる訳にはいかない。


 地元駅に行くには二回乗り変えるのでその時に巻きたい。少しタイミングをずらすとかして……。色々考えていると電車が目的地にたどり着く。私は戸津が一人でその駅で降り、改札に向かっていくのを後ろから見、気付かれないように距離を取って歩く。乗る電車も同じなので、また私は車両を変えて電車に乗る。こんな感じで地元駅まで私の一人相撲は続いた。


 地元駅に着くと、戸津はそのまま改札を抜けていった。私はほっとして、後から改札を抜ける。辺りを見回すと、少し茶髪で短髪な、垢ぬけた立ち姿が目に入った。


「お兄さん!」

「あ、優奈ちゃん」


 スマホをいじっていたお兄さんが声に反応して私の方を振り向く。少し垂れ目の、優しい笑顔が眩しい。


「じゃあ買い物して行こうか」


 お兄さんがにっこりと笑いかけてくる。それだけで私のさっきまでの不愉快感は消え去った。

 スーパーに寄るまで、学校で勉強している内容や、そして、戸津に彼女ができたことも話した。お兄さんはうんうんと、頷いて話しを聞いてくれる。聞き上手ってこういう人の事を言うんだろうなと常々思う。

スーパーに着くと、私はお母さんに頼まれた食材をかごに入れていく。そして会計をしようとしてお財布を出した所で、お兄さんが私の財布に手で蓋をする。


「え?」

「今日は出すよ。いつも夕飯ごちそうになってるしね」

「えっダメですよ。お母さんに後で請求できるし。いいって」


 お兄さんは家庭教師が終わった後にいつも家で夕飯を食べていく。そのことを言っているのだろう。


「いいの。前回も家庭教師としての働きはできてないからね。相談に乗ってただけだし」


 確かにバイト代としてお兄さんに給料は出ている。そういう意味では前回の家庭教師の殆どは私の相談に乗るだけだったので、割に合わないかもしれない。だけど私にとっては大切なことだったので、充分なくらいだ。


「たまに大人らしいこともさせて」


 お兄さんは笑いかけてきて、私の制止も聞かずに会計を済ましてしまった。


「あ、ありがとう」


 私が困ったように笑うと、お兄さんが「気にしないで」と、頭を撫でてくれた。

 撫でられた所が熱を帯び、私は顔が熱くなるのを感じた。赤くなってないよね? ばれないよね?

 今私は最高に幸せだった。そう、彼が現れるまでは。


「あれ? 細川?」


 戸津――

 一気に地獄に落とされた気がした。もしかして、見られていた?

 私の表情が曇ったのをお兄さんは見逃さなかった。


「大丈夫?」


 とこっそりと尋ねてくる。そんなことを知らずに戸津は話しかけてくる。


「なんだ、細川、お前彼氏いたのか?」


 驚いた、と付け加える。私に彼氏がいたらおかしいかのように、彼は笑う。カッと頭に血が上る。恥ずかしくて、悔しい気持ちにもなって顔を伏せる。

 私は戸津の言葉を無視して、お兄さんの手を引いてスーパーを後にした。戸津が追いかけてくることはなかった。


「もしかして、彼が例の?」


 お兄さんがしばらく無言で歩く私に心配そうに尋ねてくる。


「そう。彼が、戸津龍介」


 引いていたお兄さんの手をぐっと握り締めると、ハッとして、私は慌てて手を離した。


「ご、ごめんなさい」

「ん? いいんだよ」


 お兄さんは笑いかけてくれる。こんな私を認めてくれるのはお兄さんしかいない気がする。


「さ、家に行こうか。今日はちゃんと勉強するからね!」

「うん!」


 忘れよう。あいつのことなんか。今は目の前のお兄さんとの時間を大切にしたいんだ。

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