星空遊鯨奇縁

橘 泉弥

星空遊鯨奇縁

 都会の空には星が無い。いくら見上げても、光るのは時々横切る飛行機くらいだ。だから眺めていてもあまり面白くないのだけど、僕は今日もマンションの屋上で夜空を見上げる。

 ずっと眠れない日が続いていた。理由はよく分からないが、夜になっても全く眠くならないのだ。布団の中でじっとしていることさえもどかしいので、家の外へ出て来てみたが、やる事が無い。その結果、嫌というほど暇を持て余していた。

 ある夜、いつも通りぼんやりしていると、後ろから声をかけられた。

「少年、こんな夜更けに何をしている」

 あまりにも低く澄んだ声だったから、最初は幻聴かと思った。でも何だか無視できなくて振り返ると、目の前に壁が立っていた。先程までこんな物は無かったから、少し驚く。

 とりあえずぺたぺた触ってみると、何やらふにふにしていて柔らかい。面白い感触だ。

「くすぐったいわい」

 突然、壁が喋った。もちろん言葉を発したのだから、本当に壁という訳では無いだろう。

 改めて眺めてみると、それは大きな大きな鯨の頭だった。成程、鯨ならば優しく響く低音もゆっくりした喋り方も納得できる気がする。

 いや、ここは東京都の一角に建つマンションの屋上だ。大洋に住む哺乳類が、こんな所に浮いているはずが無い。とすると、こいつは鯨ではないのだろうか。

 分からなかったので、鯨もどきに直接訊いてみた。

「君は鯨に見えるけど、なんで空を飛んでるの?」

「むーう?」

 鯨は不思議そうに声を出す。

「面白い事を訊く子だ。鯨は空を飛ぶ生き物だろう」

「そうだったっけ?」

 本人に言われると、そんな気もしてくる。海でも山でも空を泳いでも、鯨は鯨だ。大した問題ではないのだろう。

「それで、少年はこんな時間に、ここで何をしている?」

 鯨はもう一度優しく言った。

「眠れないんだ」

 少年と呼ばれることに違和感は無かったし、名前を呼ばれるよりも心地よかったので、否定も名乗ることもしない。

「布団に居ても眠れないし、やる事ないから空を見てたんだ」

「そうかい」

 鯨は僕の言葉を包み込むようにゆっくり頷く。とても丁寧に話を聞いてくれているようで、何となく嬉しかった。

「ねえ」

「何だね?」

「ここで僕とお話してくれない?」

「いいとも」

 鯨はのんびりした様子で、広い尾を揺らす。夜の闇がゆらりと動いたように見えた。

「しかし少年、会話なら、ここでなくとも出来るだろう」

「そうだけど……」

 なら何をすると言うのか。僕が黙っていると、鯨は微かに目を細めた。

「空を飛んでみたいと思ったことはあるかね?」

 その言葉に、僕は一瞬声を失った。驚いたのと、嬉しかったのと、大きすぎる胸の高鳴りのせいだ。

「もちろん!」

「では、わしの背中に乗りなさい」

 僕は夢中で鯨の背中に飛び乗った。小さい頃から空や飛行機に憧れていたから、とてもわくわくする。

「空へ、行こう」

 鯨は濃紺の空へ泳ぎだした。だんだん屋上が小さくなっていく。

「怖くないかね?」

「全然!」

 風は少し冷たいが、恐怖は感じない。鯨の背中は僕の部屋よりも広いから、落ちる心配はないだろう。

「飛んでる!」

 マンションはもう見えなくなり、町は光の群になっている。東京タワーもスカイツリーも、鯨のお腹の下だった。

「どこまで行くの?」

「少年が行きたい所まで」

 鯨はゆっくり上昇を続ける。街の灯りは遠くなり、黒い草原にできた水たまりのようだ。あの幻想的な光の中で、何万もの人が暮らしているんだ。

 いつの間にか風はやみ、空は静寂に包まれていた。遥か下で光る飛行機の音も、ここまでは届かない。上を見ると、いつもより大きな月が銀色に輝いていた。

「鯨はどうして僕の所に来たの?」

「少年が、わしを必要としていたからだ」

「そっか」

 彼の言葉は、淀みなく僕の中に入ってくる。まるで、僕の中にあった答えをそのまま言っているみたいだ。

「来てくれてありがとう」

 僕はずっと誰かを呼んでいた。僕の話を聞いて、ありのままの僕を受け入れてくれる誰かを。そうか、この鯨だったのか。 

 広い背中に寝そべり、空を泳ぐ鯨に話し掛ける。

「あのね、だれも僕のことを認めてくれないんだ。変だって言う」

「むーう? 変ではない。少年は少年だ」

「そうなんだけどね……」

 飛行機や電車が好きだからだろうか。みんなの輪に入れないから? 〝かわいい〟ものに興味が持てないからかもしれない。

「父さんも母さんも、僕を恥ずかしいって言う。二人におかしいって言われるたびに、悲しくなるんだ」

 自分を否定され、この世のどこにも居場所が無い気がして苦しくなる。消えてしまいたいと思うこともある。つらくて、どうすればいいのか分からなくて、助けてほしくて。

 でも誰に助けを求めればいいのか、誰になら助けてと言っていいのか分からなくて、布団の中で声を殺して泣くしかない。

 そしてその内、自分が泣いていいのかさえ分からなくなって、真っ暗闇に沈んでいく。

「君が来てくれて、本当に良かった」

 黒い背中は仄かに温かくて安心する。僕と鯨しかいないこの静けさがとても心地いい。このままずっと空を泳いでいられればいいのにと思った。


「そろそろだ」

 鯨に言われて体を起こし、息をのむ。僕と鯨はたくさんの小さな光に囲まれていた。

 赤や青などはっきりした色の光もあれば、淡い緑や白に近い黄色のものもあり、一つとして同じ色の光はない。ビー玉程の光は、何に縛られることもなく自由に浮かんでいた。

「ここはどこ?」

 鯨は光の間をぬってのんびり泳いで行く。

「ここは〝星〟。〝欠片〟が集う空だ」

 小さな光は〝欠片〟というらしい。彼が進むとふわふわ動いて道を開ける。

「これは何なの?」

 掴もうとしたらふわりと手から離れて行った。怖がって逃げたようにも見えるし、じゃれているようにも見える。

「人が死ぬと星になると聞いたことがあるだろう。〝欠片〟は遺された者の想いに応えて、故人が姿を変えたものだ」

「綺麗だね」

「うむ」

 しばらく黙って〝星〟を泳いだ。真っ暗な空に漂う〝欠片〟たちは蛍か雪のようで、僕は本で見たマリンスノーを思い出した。そうすると、ここが空の上か海の底か分からなくなってくる。

 でも、どちらも変わりないように思えた。本来なら生き物の侵入を許さない、地上と離れた別世界。夢と現どころか自分の境界さえ曖昧で、この光の群に溶けてしまいそうになる。僕の抱える問題も含めて、自分の全てが受け入れられていく気がした。

 ぼんやりしていると、前方に大きな七色の光が見えた。

「あれは何?」

「分からぬ」

「行ってみようよ」

「そうだな」

 鯨と一緒に近付いて行くと、その光が僕たちと同じように動いていることが分かった。

「誰だろう?」

「わしらと同じ、客人かもしれぬな」

「話せるかな」

「少年が望めば」

 光の正体は、金の身体をしたドラゴンだった。〝欠片〟たちの光が鱗に映り、プリズムのような色に見えている。

 翼を広げ悠々と飛ぶ姿はこの世界に似合っていて、美しいと思った。

「こんばんは」

 僕が話しかけると、ドラゴンは夜空を映す瞳をこちらへ向けた。

「こんばんは。鯨に乗った人間の子」

 その声は大きな体躯から想像するより高く、鈴のようにころころ流れる。

「何してるの?」

「友を、探している」

 ずいぶん長いこと続けているのか、彼の眼には疲れと深い悲しみがある。

「一緒に探そう」

 僕の提案に、黙っていた鯨がゆっくり首を振った。周りの〝欠片〟が動く。

「友は、友にしか分からぬ」

「ああ、そうだ」

 ドラゴンが答える。

「彼は、何百年も独りで砂漠を歩き続けた。私に会いたかったのだと、笑っていた」

「……」

 僕には、会いたいと思う人がいない。きっと僕に会いたいと思う人も居ないだろう。そこまで誰かに会いたいと思えた〝彼〟も、会いたいと思われたドラゴンも、少し羨ましかった。

「私も、彼に会いたい」

 真っ直ぐ僕を見るドラゴンの瞳は、疲労や失望の奥に確かな光を湛えている。

 ああ、彼はたとえ何千年かかっても友を見つけるだろう。そして二人は互いに笑いあうのだ。

「早く会えるといいね」

 ドラゴンの表情は分かりにくいが、どうやら少し微笑んだらしい。

「ああ。人間の子も、無事に自分と出会えるように」

 そう言って、金色のドラゴンは〝欠片〟の向こうに去って行った。

 僕はまた鯨と二人になる。

「……僕も、友達が欲しい」

 会いたいと思える人、僕に会いたいと思ってくれる人が欲しい。

 学校ではいつも一人で、誰とも話さない日が多かった。いじめられている訳ではないけれど、女子の輪の中は息苦しくて、男子の話題にはついていけない。家でも両親におかしいと言われ、僕の居場所がどこにあるのか分からなかった。

「友を求めるのは、悪いことではない」

 鯨の口調は相変わらずのんびりだ。

「人は誰でも友を求める。居場所を求め、仮の友人をつくる者もいる」

 でも、僕にはそれさえできない。

「真の友を得るのは実に難しい。心を共有できる相手は、なかなかいない」

 分かってる。学校にも家にも僕を受け入れてくれる人はいなくて、自分が世界から取り残されたような気がする。

「しかし、少年を受け止め、友情や愛を注ぐ者は必ずいる」

「……本当に?」

 僕を大切にしてくれる人なんて、いるんだろうか。僕は運動も勉強も苦手で何もできない。変で、恥ずかしくて、みんなと仲良くすることもできない。こんな人間を受け入れてくれる人なんて、きっとどこにもいない。

 胸が痛くて息が苦しい。僕の涙が鯨の背に落ちる。

「本当に、いると思う?」

「もちろん」

 鯨にしては早口な返事が返ってきた。

「わしも、その一人だ」

「え?」

 驚いて一瞬息が止まる。それから、胸の痛みが少し和らいで、息もしやすくなった。

「年老いた鯨では嫌かね?」

「ううん」

 僕は急いで首を横に振る。

「友達になってくれるの?」

「うむ」

「僕、鯨の友達になってもいいの?」

「少年が望むなら」

 胸の痛みは完全に消え、温かい喜びがこみ上げてくる。

 それは、今までの暗い絶望や辛かった時間よりも強く大きく僕を包む。

 初めての友の存在が嬉しくて、言葉に出来なくて、大きな背中に抱き付く。

 たくさんの〝欠片〟が漆黒の夜空に煌めいていた。




 そして僕は、布団の中で目を覚ます。

 鯨と飛んだ夜の星空は、夢か現実か分からない。でも、どちらでもいいと思った。あの時僕を満たした優しい感情は、今もしっかり残っている。

 だから、僕はこれからも生きていける気がした。あの鯨に会いたいと願いながら。

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