第18話 黒猫と月

 靴を履いて道路に踏み出すと、ひんやりとした空気が頬を撫でた。

 閑散とした住宅街は、時折風の音が聞こえるだけで、町全体が眠っているかのようだった。その静寂に溶けこむように、浩輔はゆっくりと白い息を吐いた。


 それにしても、と思う。最後に玄関で見た、彼女の表情が忘れられなかった。

 ポンチョの裾を握って、切なそうな目を向けているハルガ。口をじっと噤んで、なにかを堪えているような。その縋るような姿が、脳裏から離れなかった。

 そして、彼女の気持ちを理解しながらも、翌日の仕事のために戻らなければならない自分自身が、なおさら遣り切れなかった。


 駅への帰り道を、歩きはじめる。少し遅れて、もう一つの足音が聞こえた。斜め後ろに、まるで付き添うように、浦田美保がいる。近所には同じ家ばかりが並んでいて迷いやすいからと、案内役を自ら買って出てくれたのだが、実際のところは、ありがた迷惑だった。一人にして欲しい気持ちもあったし、浦田家で留守番をしている遥香のことが気になってしまう。

 浩輔は、昔から変わらずに直立し続けている、色褪せたカーブミラーのT字路に差し掛かった。すると、背後から続いていた足音が、ぴたりと止まる。振り向くと、美保は街灯の明かりの下で、口元に微笑を浮かべていた。


「ここまで来れば、もういいですね」


 浩輔には、美保の真意がわからなかった。

「どういう意味ですか?」

「浩輔さん、私の家の方向を見てください。ハルちゃんはいますか?」

 そう言われて浩輔は、美保と歩いてきた道を見返した。仄かに白い靄がかかった、薄暗闇の道路に目を凝らしたが、人影は一つもなかった。

「いませんよ」

「そっか、よかった」

 美保は、胸に手を当てると、溜息をついた。その反応に、さらに不信感を募らせる。


「実は私、ハルちゃんが見えないんですよ。だから他の見える人から、あの子のことを聞きたくって」

 浩輔には、思い当たる節があった。そういえば、家の中に入ってから、ハルガと美保が会話をしている場面は、一度も目にしていなかった。 

「そうですね。身長も、普通の小学生ぐらいで、見た目も幼くって……遥香ちゃんに、そっくりですよ」

「やっぱり、そうなんですね。よかった」

 美保は、小さく頷いた。だがその言葉とは反対に、顔は不満そうに曇っていた。

「主人も遥香も、ハルちゃんのことが見えているから、家で見えないのは私だけなんですよね。だからそれが、すごいストレスで」

 溜まっていた鬱憤を放出するように、美保は勢いよく話しはじめた。


「ハルちゃんって、主人の連れ子じゃないですけど、私からしてみれば、それと変わらないんですよね。それなのに見えなくて、遥香は歳の近い姉妹みたいに懐いて、主人も一緒になって遊んでいるし。なんだか、主人と娘が取られたみたいで、悔しいんですよ」

 最後は、胸の奥から押し出すような言い方だった。

 街灯の点滅が、彼女の憂いのある横顔を照らしている。

「最近になってやっと、慣れてきたつもりだったんですけどね。でもやっぱり、ずるいと思うんです。どうしてハルちゃんは、私には見えないのかなって。なんで妖精は、大人には見えないのかなって。どうして私は大人なんだろうって、思うんですよ」


 浩輔は、強烈な既視感デジャヴを覚えていた。

 それはかつて、自分が囚われていた迷路に、彼女自身も足を踏み入れているかのようだった。やり場のない懊悩を抱えた美保に、昔の自分を重ねてしまう。

「私にだって、子供の頃にはいたんですよ。ハルちゃんみたいな、他の人にはわからない、特別な友達が。かわいらしい、熊のぬいぐるみなんですけどね。どこへ行くのにも一緒で、おままごとをしたり、お話をしたりして。私の親友だったんですけど、何年か経って気が付いたら、手元からいなくなっていました。たぶん、捨てちゃったんだと思うけど、それすらも覚えていなくって。妖精もきっと、そんな存在なんですよね」

 美保は、指先で目元をなぞった。頬には、一筋の雫の跡が、暖色の明かりでわずかに反射していた。

 そして美保は、手のひらを軽く叩くと、話題を切り替えるように、調子を一変させて笑顔を作る。

 だが彼女の声音は、涙が混じったように微かに震えていた。


「そういえば浩輔さんは、先週再放送していた映画観ました? ほらあの、魔女の女の子と黒猫の映画です。私、子供の時には、魔女のキキが大好きだったんですよ」

 あの映画を最後に観たのは、いつのことだっただろう。

 浩輔は、記憶の糸をたぐり寄せた。たしか十年ぐらい前に、父親と電話で口論した時だっただろうか。ずいぶんと、昔のことのように思えた。

「でもこの歳になってから、ちょっと嫌いになっちゃいました。知っていました? 黒猫のジジって、実はイマジナリーフレンドなんですって。本当は言葉を喋れない、普通の子猫なんです。ジジが劇中で話していたのは、一人きりだったキキの心の声だったんですよ。でもキキは、新しい友達を作って、ジジのことがいらなくなってしまう。だから最後になって、キキが魔法を取り戻しても、ジジの言葉は聞こえないままだったんです」

 美保は、視線を夜空に向けた。浩輔もそれに倣って、眺める。

 そこには、幻想的な満月が浮かんでいた。


「ハルちゃんと出逢ってから映画を観たら、なんだか寂しくなっちゃって――キキは、田舎の村から都会に出てきたことによって、たくさんの人に出逢って、恋を知って、世界がすごく広がって、大人になるんです。でもその引き替えに、魔法が使えなくなって、親友のジジとは喋れなくなって……今の私と一緒だなって、思うんです。もしかしたら、ジジと一緒に過ごしていた方が、幸せだったのかもしれない。大人になることによって、かけがえのないものを失っているんじゃないかなって。そう、思うんです」

 美保はそのまま、身動ぎもせずに、見上げ続けていた。

 春の夜に浸るように。朧月に吸い込まれるように。

 それがまるで、幼少期の彼女自身へと、回帰を試みているようだった。その悲壮な姿に、浩輔は堪らず、声に出していた。


「大丈夫ですよ」


 それは、ハルガを励ました時の言葉だった。

 そして、ハルガが勇気づけてくれた時の、魔法の言葉だった。

「美保さん、実はぼくも、つい最近まで妖精のことが見えなかったんです。記憶喪失のように、忘れてしまっていたんです。だけど、ふとしたきっかけで、思い出すことができました。不思議かもしれないけれど、大人と子供の境目なんて、そんなものだと思います。きっと、美保さんにも見える日がくるはずですよ」

 美保の視線は、変わらなかった。

 浩輔は、昔の自分自身を噛み締めるように、目頭が熱くなるのを感じながら、続きを口にする。

「ぼくにも、似たような時期がありました。子供の頃のままでいた方が、幸せだったんじゃないかって。でも、その時にお世話になった、イマジナリーフレンドのような友達がいて、今は少し遠い関係になってしまったんですけど……その子が、教えてくれたんです。外の世界に行きなさい、って。どこにも行けない彼女とは違って、ぼくはどこにでも行けるんだから。そう言ってくれたんです。だから、子供の殻に閉じ籠もるのはもう、やめることにしました」


 彼女に届いているかは、わからなかった。

 美保は、首を上に傾けたままだった。なにかを飲み込むように、唇を微かに動かしている。しばらくして、ゆっくりと顔を浩輔に合わせた。そこには、どこかすっきりとしたような、晴れやかな表情があった。

「なんだか、私ばっかり喋っていましたね。こんなこと、誰にも相談できなかったから。聞いてくれて、ありがとうございました。また、いらっしゃってくださいね」

 美保は言い終わると、うずうずと肩を揺らしながら、頬を紅潮させていた。上目遣いに、浩輔を見つめる。

「それでですね、あの、その」

 彼女は瞳だけを、自宅の方へと動かした。

「私、子供達のことが心配だから、そろそろ家に戻ります。お時間取らせて、すいませんでした」

 美保は、ぺこりと一礼をした。ぱたぱたと、早足で去っていく。

 浩輔は、立ち尽くしたまま、それを見送った。


 しだれ桜の庭園に、花びらの白雪が降り積もる情景を思い描きながら。冬のなごりが残る冷たい風を、肌身に感じながら。

 それからもう一度、駅に向かって歩きはじめた。





 最終話 春の宅急便 へ続く..

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