最終話 春の宅急便

 浩輔は、終電車に揺られながら、帰途に就いていた。

 電車内の人影は疎らで、空席が目立っていたが、敢えて座らずに、開閉扉近くに佇立していた。ロングシート端部の仕切りに、背中をもたれかける。体内に籠もっていた溜息を放出させながら、過ぎゆく夜景を眺めていた。


 また、来られるだろうか。


 浩輔は、妖精の彼女を思い浮かべた。

 ハルガには浦田家での生活があって、自分にもやがて家族ができる。仕事に忙殺される毎日と、年内に生誕する子供との幸福で、昔の記憶は擦り切れるように、薄らいでいってしまうだろう。

 あの頃の二人はもう、今は別々の道を歩いている。

 過去の日溜まりに戻れることはなくて、新しい流動的な日常で上書きをされていく。いつしか想い出は、砂時計の落ちた砂に埋もれて、見えなくなってしまう。


 大人になることによって、かけがえのないものを失っているんじゃないか。


 美保の言葉を、反芻する。たしかにその通りだと、浩輔は肯定をした。

 それは容姿だけではなくて、純粋さや冒険心、記憶といった目に見えない要素だろう。母の若年性認知症の介護をしてきた浩輔にとっては、日に日になにかが欠落していく様子を目にしていたから、抗いようのない事実だった。失ってしまうことは、決して拒めない。

 でも、と浩輔は思い直した。消えてしまうことは、仕方がないかもしれない。だが果たして、消えてしまったものを忘れてもいいのだろうか。

 浩輔は、床に置いたビジネスバッグを見下ろした。鞄の隙間からは、中に入ったビニール袋と、達筆で描かれたパッケージが覗いている。その文字はもはや、すっかりと見慣れたものだった。


 高井戸らあめん。

 いつか昔に交わした、ハルガにラーメンを食べさせてあげるという、恩返しの意図が籠もった約束だった。それを叶えるために、途中のスーパーで購入をしたはずだった。だが、渡す機会は何度もあったのに、結局そうはしなかった。

 もしこの約束を終わらせてしまったら。彼女との繋がりも消えて、いずれ忘れてしまうように感じて。だから、敢えて持ち帰ることにした。それはアルバムの付箋のようで、彼女に逢いに戻ってくるための道標でもあった。


 いつになるかはわからない。

 だけど、いつかきっと。


 浩輔は、すぐ傍の車窓から、夜空を見上げた。繁華街のネオンのせいか、小学生の頃に比べると、星の明かりは見えなくなっていた。だが、目を凝らせば、今にも消えてしまいそうな輝きが、確かにある。それを見失わないようにしながら、左手首に指を添えた。

 アイウォッチでは、既に音楽アプリが起動されていた。顔を窓の外に向けたまま、再生ボタンを押した。同時に、耳に嵌めたワイヤレスイヤホンから、やわらかな伴奏が聞こえ始める。

 それは美保が話していた映画の、女性ボーカルの主題歌だった。




 小さいころには、神様がいるのだろう。

 それは黒い子猫だったり、お姫様の人形だったり、もしくは、妖精の女の子かもしれない。

 そして大人になるにつれて、次第にいなくなってしまう。




 だが大人になっても、また奇蹟が起こることはあるはずだ。

 自分自身が、そうだったから。

 それはまるで、やさしい気持ちで目覚めた朝のように。

 桜の花びらが届くように。

 遠い春の想い出が、宅配されるように。

 誰にだって、子供の頃はあったはずだから。

 大切なのは、消えてしまったものを、決して忘れないことだ。




 浩輔は、わずかな星屑から、視線を逸らさなかった。

 しっかりと瞳に焼き付けながら、続きの音楽に耳を傾ける。




 目に映るすべてのメッセージが、わずかに滲んで。

 宵闇の中、後方へと過ぎ去ってゆく。




 電車は大きな音を立てて、トンネル内に突入した。

 そして浩輔は、青春の残像に別れを告げた。






     ―― スプリング・イズ・デリバリーサービス  了

 

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