第17話 桜月夜

 満開の桜だった。

 夜空の満月の下で、大きなしだれ桜が咲き誇っていた。


 やわらかく垂れた枝葉には、桃色の花びらたちが付いていて、月光に照らされてほのかに青白く透けている。一陣の風に吹かれると、その身を切り離して、ゆるやかに空中を漂っていた。地面に静かに降り積もる姿は、まるで白雪のようにも思えた。

 庭園に面した縁側に座り、手中の湯飲みに口を付けると、ふわりとその中に、小さな花びらが着水するのが目に留まった。水面にぽつりと浮かんだ、薄い膜のようなそれを、人差し指と親指の腹で摘む。柔い感触を少し味わってから、そっと傍らの歩廊に置いた。そしてまた、夜桜に視線を戻す。


 ここの桜が咲いているのは、はじめてのことだな――浩輔は、感嘆の溜息をつきながら、そう思った。幼い頃は手入れもされていない、自由奔放な原っぱだったが、背丈を揃えて刈り取り、桜の花が芽吹いただけで、これほど壮観な眺めになるなんて、考えもしていなかった。

 実際には、しだれ桜の変化だけではなくて、建物の構造にも、様々な趣向を凝らしているらしい。先ほど出会った女性、浦田うらた美保みほの話では、一軒家の表側がモダンな洋風、裏側が古式な和風になっているのにも、大きな理由があるとのことだった。

 建物の裏側は、桜を囲うように、コの字型になっていた。浩輔が座っている、庭に沿って敷かれた回廊には、腰を掛けるための縁側があり、充分な面積を持つ芝生と巨大な桜の木が生えた庭園を、どの角度からも一望することができた。だがその造りに費用を掛けすぎたせいか、もしくは酒屋の土地を購入して敷地を合併させたせいか、表側は安上がりで仕上げられる、洋風の一軒家になっている。道路から見れば洋風の館で、入ってみれば和風屋敷。ずいぶんと無茶をする家族だな、と思った。だが桜の木を包み込むように、家の中に取り込もうとしている姿勢は、空き地に対する強い思い入れの表れのように感じられた。


 緑茶を流し込み、口内と舌でゆっくりと味わうと、ごくりと飲み込む。しばらく余韻を堪能しながら、その渋みに合う甘い茶菓子、木皿に盛られた花林糖かりんとうに腕を伸ばすと、すでに小さな手が、最後の一つを掴んでいた。その主と目が合う。にしし、と屈託のない笑顔だった。

 浩輔は、その銀髪の女の子を、じっと見つめた。それから、食べていいよ、と囁いた。その子は一度、きょとんとした表情をして、手元の細長いお菓子を見下ろした。

 すると女の子は、そのお菓子をぱきんと二つに折った。片方を彼女、もう片方を浩輔に渡す。浩輔は、なんだか昔にもこうして、夏の野原でアイスキャンディーを分け合ったな、と思い返していた。女の子は、茶色の欠片を口に近づけると、かりかりかりっと小動物のように囓って食べる。そして桜色のかわいらしい湯飲みを持って、唇を付けた。飲み終わって、うん、と頷く。


「おいしいね」


 ハルガは、無邪気な笑みを浮かべた。浩輔はその光景に、確かな充足感を覚えていた。

 桜の木の妖精ハルガが、今もこの土地に存在している。その信じられないような奇跡は、美保の主人、浦田 貴博たかひろのおかげだった。


 浩輔が交通事故に遭って、引っ越しをしてから数年後のこと。誰も来なくなった空き地に、八歳の貴博が偶然通りかかった。妖精を見ることができた貴博は、家庭の複雑な事情もあって、中学三年生までの長い時間を、二人で一緒に過ごすようになった。だが十五歳の冬に、ついに妖精のことを忘れてしまう。ハルガはまた一人ぼっちになってしまった。悲しみに暮れるハルガだったが、それから十五年後、彼女にとって思いもよらない出来事が起こる。

 大人になったはずの貴博が、またこの空き地に戻ってきたのだ。それもハルガとの記憶を、すべて思い出して。大人になった貴博と妖精のハルガは、想い出の場所で再会を果たした。そして貴博は、もう二度と別れたくないと思い、この土地に家を建てることを決意した。最愛の妻と娘、そして親友のハルガ。四人の仲睦まじい生活がスタートしてから、すでに二年の月日が経過していた。

 浩輔は、キッチン内でせかせかと動き回る美保から、茶菓子と緑茶の準備ついでに、そう説明をされた。主人の貴博とハルガの出逢いや、その想いが籠もったこの家の構造についてなど。一頻り話が終わると、お盆を片手に持った美保に先導されて、桜の木の周りにある、細長い回廊に到着した。そして美保は、手早くお盆と座布団を廊下に敷くと、浩輔の耳元にそっと手を寄せて、ではあとは水入らずで、と悪戯っぽく一言を添えていった。


 浩輔は、受け取った花林糖の片方を、口の中に放り込んで、奥歯で噛み砕いた。そして左隣で、縁側に腰を掛けて、足をぶらぶらとさせているハルガを見据える。

 ハルガと話したいことは、たくさんあった。昔の想い出や、今の私生活。だが、実際に本人を目の前にしてしまうと、なにから話せばいいのか、わからなくなってしまう。

 考え込んでいると、ハルガは庭園を眺めながら、陽気そうに口を開いた。

「それにしても、ひさしぶりだね」

 ハルガはにこにこと、とても幸せそうな顔をしていた。お尻を座布団に載せたまま、上体を少しだけ後ろに倒して、両腕で体を支えている。

「コウスケは、元気にしていた?」

 浩輔とハルガは、しだれ桜に視線を向けて、顔を合わせないままに、言葉を交わす。その様子はまるで、二人並んで原っぱに腰を下ろして、青空をずっと見上げていた、当時の情景を再現しているようだった。


「ああ、元気だったよ。ハルガも、相変わらず元気そうだね」

 ハルガは両手を腰にあてて、えへんと胸を反らせた。

「わたしはいつも元気いっぱいだよ。昔と変わらずに、ね」

 そしてハルガはちらりと、浩輔の横顔を見上げる。

「でも、コウスケはずいぶんと、大きくなったみたいだね。顔つきもなんだか、大人っぽいし。あのころとは、まるで違うみたい」

 浩輔は、少し胸が痛んだように感じた。

「あのときは病気で、骨が浮き出るぐらいに痩せていたからね。でも今じゃ、お腹も摘めるぐらいだし、いい歳したおじさんだよ」

 彼女の言うとおり、自分はあれから二七年も歳を重ねた。だがハルガは、同じように時間こそ経過していたが、妖精は体が成長しないのか、昔からなに一つ変わっていなかった。その二人の容姿の差に、言葉にできない寂しさを感じていた。


「コウスケはいま、いくつなの?」

 三八歳だよ、と答えると、ハルガは感嘆したように息を吐いた。

「すごいね。タカヒロよりも、年上なんだ。じゃあ、仕事もしてるの?」

 浩輔は、仕事の内容を、大袈裟な表現や、ジェスチャーを交えて教えてあげた。ハルガは、その一挙手一投足に、けらけらとお腹を抱えて笑っている。

 もし彼女が大人だったなら――企業のネットワークを構築する仕事に、どれだけ真剣に取り組んできたのか。一人前になることを目標に、愚直に走り続けてきたこと。そして部下にも慕われて、会社で最年少の課長に就けたことを、話したかった。だがそれは、子供のハルガに理解できるようには、とても思えなかった。


「そっかそっか。それなら、仕事は楽しいんだ?」

 無邪気に投げかけられたハルガの言葉に、一瞬思考が止まった。

 確かに、職場のブースで仕事に臨み、会社の業績を上げて、成果を出せている自分自身には、満足感があった。だが、仕事自体が楽しいのかと訊かれると、即答することは難しかった。もはや、そういった感覚を通り越した地点。しなければならない習慣としか、捉えていなかった。

「楽しくはありたい、そう思っているよ」

 その返事を聞いてハルガは、そっか、と納得したようだった。

 今度は逆に、ハルガ自身の生活について訊くと、彼女はすぐに大声で答えた。

「すごく楽しいよ!」

 そして身振り手振りをしながら、嬉しそうに早口で喋る。


「いつもハルカと一緒に遊んでいるんだ。あの子と初めて会ったのは六歳のときなんだけど、季節が過ぎるたびにぐんぐん体が大きくなってね。もう八歳なんだけど、そろそろわたしの背が追い抜かされそうなんだ。それになかなか足が速くって、生意気でね。これはタカヒロがハルカに甘くて、まったく叱らないせいなんだけど。だからわたしが、怒ってあげなくちゃいけない。そのたびにハルカと口げんかをしてさ、いつか嫌われるんじゃないかと思うと、ちょっとさびしくなるときがあるよ」

 喉が渇いたのか、ハルガはかわいらしい湯飲みを持ち上げて、ちょろちょろと飲んだ。茶托に置くと、すぐに話に戻る。

「でもね、ハルカがミホにせがむんだ。わたしと同じ髪型、服装にしてほしいって。笑っちゃうだろ。わたしなんかのマネをしたいって、言ってくれるんだ。いつもいたずらばっかりしているのに、ときどきかわいらしいことを言うんだから、まいっちゃうよな。でね、今日はいないけど、休みの日にはタカヒロもいっしょになって、三人でこの原っぱの中で、鬼ごっこや、だるまさんがころんだをするんだ。これまで二人でしかやったことがなかったから、みんなで遊ぶのがこんなに楽しいだなんて、知らなかったよ。毎日が楽しいことでいっぱいで、わたしは今、本当にしあわせなんだな、って思うんだ」


 ハルガのはしゃぐ仕草を、浩輔はどこか、離れたような視点から傍観していた。

 一人ぼっちだったハルガに、家族ができた。それは浩輔にとっても喜ばしいことで、あれからの年月を考えれば、当然予期できたはずだった。だがどうしても、複雑な感情が入り混じってしまう。その理由は、ハルガがあまりにも、昔のままだったからだ。

 小さくてかわいらしい手。ちっとも大きくなっていない背丈。あどけない顔つき。小学生の時に、二人きりで遊んでいたハルガは、記憶の中の変わらない容姿のままで、現在では浦田家の娘として生活をしている。それはまるで、自分の想い出に住んでいるハルガが、塗り潰されたようで――

 かつての同級生のような親友は、少しだけ遠い、親戚の娘のように感じられた。


 浩輔は、そう考えた途端に、気が滅入ってしまった。もうこれ以上、ハルガの話を耳にしていたくはなかったし、自分自身の話をしても、彼女にはあまり伝わるようには思えない。ハルガも、浩輔の表情からなにかを察したのか、喋るのを止めた。

 それからは、お互いの口数が減ってしまった。頭上の朧月に、厚い雲がかかって、屋敷全体に影が落ちる。暗闇になった回廊は、静けさに満たされていた。目の前の庭園では、夕闇の風景の中、花びらが粛々と地面に舞い落ちている。それはまるで、時間が流れていくのを体感しているようだった。

 浩輔は、ひさしぶりの旧友との再会が、どこかぎこちない雰囲気になってしまい、悲しく思った。せめてなにか、この場を変えられるような話題はないだろうか。手元にあった、すっかり冷めてしまった緑茶を、完全に飲み干す。そして思い出したのが、小学生の時に起こった、交通事故の一件だった。そもそも、この空き地に帰って来られたのは、病院での追想、フラッシュバックがきっかけだった。あの事故について、命の恩人の彼女に、お礼を言いたかった。

 浩輔は、懇切丁寧に感謝を伝えた。


 あのときにハルガが助けてくれなかったら、今の自分はいなかった。

 本当にありがとう。


 だがそれを聞いたハルガは、つまらなそうに鼻をならした。

「なんだ、そんなことか。わたしはなにもしてないよ。あれは通りがかった大人が、助けてくれただけ。むしろあのときのわたしは、悔しくて仕方なかったんだ」

 ハルガは、膝の上に揃えた手を、ぎゅっと握った。

「目の前で苦しんでいるコウスケを、助けることができない。妖精のくせに、わたしにはなにもできない。そんな無力感を、味わっていたんだ。だから謝るのはむしろ、わたしの方なんだよ」

 浩輔は、驚いて否定をした。そんなつもりではなかった。まさかあの事故に対する認識が、自分と彼女でそこまで違っていたなんて。

 するとハルガは、浩輔の反応をわざと無視するように、唐突に身を乗り出した。それよりもさ、と前置きをして、不快感を払拭させるような、朗らかな調子で訊ねる。


「コウスケのお母さんは、元気にしてる?」

 浩輔は、言葉に迷った。きっと彼女は、子供らしい無邪気さで訊いたとは思うが、それはとても答えにくい内容だった。はたして、事実を教えていいものだろうか。痴呆が進行して物事を記憶できなくなり、延々と入院生活を強いられ、決して全快することはないという、悲惨な現状を告げる必要は、あるのだろうか……

 浩輔は、元気にしているよ、と咄嗟に嘘をついた。すると、ハルガは訝しげに、浩輔の顔をじっと見つめる。それはまるで、小さい頃から面倒を見てきた子供の、なにかを隠している時の仕草を、確認しているかのようだった。彼女は、呆れたように溜息をついた。

「そっか」


 そして再び、静寂が訪れた。

 浩輔は、息苦しさを感じていた。まるで泥沼に嵌っているような、どれだけ足掻いても抜け出せない、閉塞感。もしかすると、この沈黙の正体は、今まで別々に過ごしてきた期間、二七年間分のずれなのかもしれない。だとすればそれは、あまりに永くて残酷な、巨大な断崖のように感じられた。

 春一番が、草原を駆け抜けるように吹き付ける。上空の雲が流されて、満月が黄金色の顔をわずかに覗かせた。屋敷内は相変わらず薄暗く、草原で頭を揺らしている植物たちが、月明かりに包まれていた。

 ハルガは、縁側から地面にすとんと降りた。浩輔は、突然の行動に驚いていると、彼女は昔の笑顔のままで、くるりと振り返った。


「鬼ごっこしようか」


 浩輔は、面食らったように、えっ、と短い声を出した。

 小学生の時の懐かしい情景が一瞬、脳裏を過ぎった。だがこの庭園の広さでは、子供同士ならともかく、自分の体ではやや狭いように感じられた。それに自分の年齢を考えると、今さらのように思えたし、あまり気が乗らなかった。

「あ、そっか、ごめん。いやだったよな」

 表情に出てしまったのだろうか。ハルガは、慌てて誤魔化した。

「じゃ、じゃあ前に、ここで飛ばした紙飛行機をしようよ。それか、あのバネみたいなおもちゃでもいいよ」

 動揺したように、ハルガは続けて言う。秋の空に飛ばした、発泡スチロール飛行機。レインボーカラーのスプリング。あの玩具を売っていた酒屋は、とっくの昔に潰れている。その場所は他ならない、自分達の足下にあったはずだ。

「ハルガ。あのときの玩具は、隣にあった酒屋で買ったんだよ。だからもう、ないんだ」

 ハルガは一瞬、雷に打たれたように、全身をびくりとさせた。恥ずかしそうに、体を背ける。

「そっか、そうだよな。なに言ってるんだろ、わたし。あれからもう、すごい時間が経っているっていうのにね」

 浩輔は、見ていられなくなって、顔を伏せた。目の前には、暗澹とした深い闇があった。彼女が歩いている草原の上と、しだれ桜の周りだけが、月光で煌びやかに輝いている。それはなにか透明で、堅牢な隔たりがあるかのようだった。

 この境界を越えて、彼女と同じ場所に戻ることはもう、できないのだろう。

「そっか、そうだよね」 

 ハルガは、その小さな口から、寂しそうに呟いた。


「浩輔はもう、大人になっちゃったんだね……」




 第18話 黒猫と月 へ続く..

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