第14話 あの日の遠い約束
あの冷たい冬の夜。
ぼくは、車に撥ねられて空中に浮かんだ後に、地面に叩きつけられた。あまりの痛さに、意識が麻痺して靄がかかったようだった。
顔に触れる道路のコンクリートが、冷たい。頭からはなにかが、どくどくと溢れ出ているようだった。ぼんやりと、なにかをしなくちゃと思ったけれど、手足はこれっぽっちも動いてくれなかった。そのうち、思考も回らなくなってくる。
はっきりとしない視界の中、眼球だけを動かした。見覚えのある風景が、色彩を失って映っている。あれは前におもちゃを買った、酒屋の狸の置物だ。その隅っこに小さい、ぴょこぴょこと動くなにかがあった。
×××だった。酒屋と空き地の境界線から、身を乗り出して、白い手を差し出している。どうやら引き寄せようとしているようだったけど、ぼくと彼女の間には少し距離があった。空き地から出られない×××にとって、それは永遠に届かない距離だった。何度も頑張っていたけれど、無理なことがわかったようだった。幼い顔を、くしゃくしゃにしていた。そのまま原っぱの奥に、戻っていってしまった。
一人ぼっちになると、急激に視界の縁から、じわりじわりと黒いなにかが迫ってきた。それは閉じ籠もっていた時に見ていた、無数の染みのようでもあった。だから直感的に、このまま死んでいくんだろうな、と納得していた。自然と、受け入れてさえもいた。心のどこかで、また誰も自分を知らない土地に引っ越すことに、大きな不安を覚えていたからかもしれなかった。
凋んでいく視界に、ちらりとなにかが映った。それは青色で細長くて、風にはためいているようだった。
コウスケ。
ひどく遠くから、誰かが自分の名前を呼んでいる。聞き慣れた声だった。
それは実際にはすごく近くて、精一杯叫んでいる、親友のものだった。
コウスケ、お願い。頑張って。
球体の斑点に埋め尽くされて、目の前は真っ暗になっていた。彼女の姿は、もう見えない。でも構わなかった。なにをしているのかはもう、わかっていたから。
音だけが、唯一聞こえている。だから最後の意識を集中して、耳を澄ませた。
わたしは▲▲だから。大人には見えないから、こんなことしかできないけれど……
これまで妨害をしていた、記号のようなノイズが、薄らいでいく。
そしてやっと、聞こえた。
わたしは妖精だから。大人には見えないから……
そしてぼくは、意識を手放した。
最後に耳に入ったのは、誰かが駆けつける音だった。
目が覚めると、ベッドの上だった。
閉めきられたレースのカーテン越しの光が、眩しい。上半身を起こして手元を見つめると、腕には小さな針が食い込んでいて、そこから透明のチューブが伸びていた。どうやら、点滴の器具のようだ。液体の落ちる音が、ぽつんぽつんと断続的に聞こえている。
ぼくは周りを確認して、自分が病院のベッドにいることがわかった。そして頭のてっぺんから顎までを、包帯で覆われているようだった。そのまま辺りを見渡していると、病室の扉がスライドして開いた。
母親と、父親だった。ぼくが目を覚ましていることに気付くと、母は持っていたバッグを落として、一目散に駆け寄ってきた。ぼくの頭をぎゅっと抱きしめて、何度も名前を呼ぶ。父は少し離れた場所から、腕を組んで、硬い表情のまま頷いていた。
母が落ち着きを取り戻してから、あの夜からの出来事を教えてくれた。ぼくが車のひき逃げにあったこと。頭に大怪我を負ったこと。目を覚まさないまま、一ヶ月が過ぎたこと。その間に引っ越しが終わって、病院も移動をしたこと。そして、ショックのせいか記憶が、一時的に混乱しているということ。
それからぼくはリハビリで、様々な治療をすることになった。点滴だけですっかり弱った体を鍛えるための筋力トレーニングや、事故のトラウマや記憶を回復するための精神力テストなど。そのテストを繰り返し受けることによって、ぼくの頭はみるみるうちに成長をしていった。両親も医者も、退院できる日が近いと大喜びをしていた。
でも、ぼくの心の中には依然として、ぽっかりとした空白があった。
そこにはなにか、大切なものがあったはずだった。自分を支えてくれていたような熱が、たしかに存在していたはずだ。でも、どれだけ思い返してみても、記憶の中を漁ってみても、欠片も見つからなかった。
ぼくは、誰も見舞いに来ていない時間に、ふと気が緩んだのか、一筋の雫が頬を流れていた。その涙の理由は、わからなかった。わからないからこそ、どうしようもなく、悲しかった。
時折、病室から窓の外を眺めることがある。それは緑の滾る木々を見ているわけではなく、さらにその頭上、大空へと向けていた。それはどこか遠いところで交わした約束のように思えて、少し寂しい気持ちにさせた。
第15話 想い出の空き地 へ続く..
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