第13話 雪解け水
問診に来た若い医師に訊くと、すぐに一階の診察室に案内された。
近年では、カルテはパソコンのハードディスクに保管されているらしい。カルテの保存期間は五年間で、それ以降の記録になると、実際に治療をした病院にしかデータは残っていない、とのことだった。内容を閲覧する際には、申請書と手数料が必要だと言われたので、それが発生しない範囲、事故の起こった場所だけを口頭で教えてもらうことにした。母の言っていた通り、自分がここに入院していた記録が残っていて、事故現場も電車で二駅の距離だった。
浩輔は、お礼を言って診察室から出た。荷物を取りに三階、母の病室前に戻ると、丁度扉を開けようとしていた父と鉢合わせした。父はゆっくりと、頭を上げた。寝不足のせいか、目は落ち窪んでいる。頭髪はほとんどが抜け落ち、口元に携えられた髭は、すっかりと白くなっていた。
「なんだ、お前か」
浩輔は、父のいつも通りの言葉に、乾いた笑い声を出した。父は、今日の早朝まで付き添っていたのだが、体力の限界から、実家に帰って眠っていた。母が回復したことを電話で知らせたから、それで今来たところだったのだろう。
「電話でも話したと思うけど、母さんはだいぶ元気になったよ。医者ももう、安心だって言っていたしね。父さんも、顔を合わせてあげてよ」
なにかを考え込んでいる父の前を通って、病室に入った。ベッドを見ると、母はまた呼吸器を付けて、やはり瞼を完全には閉じないで、眠っているようだった。また来るよ、と一声かけてから、ビジネスバッグを持ち出して表に出る。父はまだ、中に入ろうとはしなかった。
「じゃあね」
「おい、どこに行くんだ」
背中から、野太い声が聞こえた。振り返って、答える。
「ぼくが十歳の時に住んでいた家。あそこの近くに、行ってくるよ」
すると父は、口をぽかんと開けた。険しい表情になると、なにかを怒鳴ろうとした。だが、痰が絡まったのか、げほげほと咽せている。
「まだお前は、そんな子供みたいなことを……」
「違うよ」
浩輔は、父の顔をしっかりと見据えた。
「以前のは、確かに自分探しや現実逃避、父さんへの強がりだったかもしれない。でも、今度は違う。ぼくのことを助けてくれた旧友に、恩返しをしにいくんだよ」
そう言って立ち去ろうとすると、まだ父は喉を唸らせていた。あまりにひどいので、もう一度父に目を向けると、廊下の手すりを握りしめて、体を支えていた。
「ああ、やっぱり失敗だった。母さんを、この病院に移すべきじゃなかった。浩輔の怪我が治った、その御利益を期待して、この病院に変えたのに。これでは完全に、御破算だ」
ここまで力のない父を見たのは、初めてのことだった。威厳のある顔つきや、力強い眉を崩して、憔悴しきったように頭を抱えている。
「やはりこの土地は、呪われているんだ。浩輔は不登校になるし、車に轢かれて大怪我を負ってしまうし、俺も交通事故に遭って入院をした。母さんだって、あの状態だ。すべては、この場所のせいだ。この土地に住んでしまったから、俺達高井戸家は、怨霊に呪われてしまったんだ」
父のことは、長い間、憎んできたつもりだった。辛い目に遭えばいいと思っていた。だが、自分もかつての父の年齢に近づいたせいか、昔のように嫌ってはいなかった。父の弱々しい姿は、見たくない。
浩輔は、父の背中に手を添えた。安心させるように、大丈夫だよ、と囁く。
「安心して、父さん。ぼくらは、呪われてなんていないさ。むしろ、その逆だよ。ぼくはこの場所で出会えた友達のおかげで、閉じ籠もることの無意味さを知ったし、外に出ることの素晴らしさがわかったんだ。だから怨霊というよりは、むしろ、そう……」
あの子は、守り神だったのかもしれない。
第14話 あの日の遠い約束 へ続く..
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