第8話 大人になんか

 あの人はだれ。


 ×××は、引き攣ったような顔をして、原っぱの外を指差した。目の前の道路には、母が微笑みながら佇んでいる。ぼくの母さんだよ。教えてから少し照れくさくなって、頭を掻いた。

 脱走がばれてしまった、その次の日。ぼくはいつもの空き地に、母親を連れてきていた。行き先を教えたら外出を許してくれるという約束と、母のことを信じての行動だった。あと、新しい場所ではじめてできた友達を自慢したいという気持ちも、ほんのちょっとだけあった。

 ぼくは、×××のことを母に紹介しようと、その手を取ろうとした。だが彼女は、素早い動きで避けると、むっとしたように腕を組んでしまった。


 だめだよ、コウスケ。


 ぼくはしばらく、×××が嫌がっていることがわからなかった。さらに一歩近づくと、彼女も一歩だけ後ろに下がった。


 わたしは大人が、にがてなんだ。


 どうして。


 ぼくは、戸惑いながら聞き返した。もう一歩だけ踏み込むと、同じように後ずさりしていた×××の背中が、どん、と桜の木にぶつかった。彼女は困ったように、整ったグレーの眉を寄せた。そして、しかたないな、と口を開いた。


 わたしは、▲▲だから。


 またこの言葉か、と思った。レポート用紙に書き出しても解けなかった、魔法のような単語。その二文字を彼女は、呪文のように何度も口にした。


 わたしは▲▲だから、大人はにがてで。


 ▲▲だから、大人には知られたくない。


 彼女は桜の幹に寄りかかって、説明をしてくれた。でもあの言葉の正体がわからないから、所々が虫食いになってしまう。そのせいで、ほとんどが耳を通り抜けてしまった。はっきりと覚えていたのは、最後の一言だけだった。


 ▲▲だから、大人には見えないの。


 彼女はまるで、それが当たり前だというように、小さく頷いた。▲▲だから、×××の姿は大人に見えない。×××の声は大人に聞こえない。ぼくはそれが冗談だと思った。だから、ぼくたちをずっと眺めていた母に聞いた。でも母は、不思議そうに首を傾げているだけだった。


 ここに女の子がいるよね。


 そう訊ねても、母は困惑した様子だった。彼女の言う通り、母はぼくたちを眺めていたわけではなかった。目に映っていたのは、ぼく一人だけだった。×××のことは、姿も声も、全く見えていなかった。

 そんな、と思って振り返る。頭上の桜の枝がぼくたちに影を落とす中で、×××は唇を結んで、どこか寂しそうな表情をしていた。


 この日は、原っぱにいた時間はそれだけだった。母に手を引かれたから、すぐに自宅に戻ることにした。とても息苦しい帰り道だった。大人には、×××の姿が見えないし、聞こえない。それならぼくは、なにもない空間に喋っていたことになる。母から、頭がおかしくなったと思われただろうか。やっぱり、外出禁止になるだろうか。背中からぞわぞわと、なにかが這い上がっていくような感覚がした。

 ぼくは不安になって、母を見上げた。母も、ぼくの顔を見下ろしていた。


 お母さんもね、小さいころにあったのよ。


 囁くように言ってから、ぼくの手をそっと握った。手を繋いで歩くぼくたちの影は、大通りに長く伸びていく。母の声が、不思議と心地よかった。


 見えない友達とか、空想上の友達とか、ずいぶんと小さいころの話だけどね。そのときの気持ちを、ちょっと思い出しちゃった。


 ぼくは、母の顔色をうかがった。母の目線は帰り道だけではなくて、どこか遠い場所に向けられているように感じた。

 母が言っているのは、イマジナリーフレンドのことだろう――心理学の分野でそのような現象名があるのを、大学の図書館で目にしたことがある。自分だけにしか見えない、自分の心が生み出した空想上の友達。それは幼い子供なら、誰にでも起こりうる症状だという。そして大人になる過程で、忘れたことさえも自覚せずに、消滅してしまう。

 住宅街が夕焼けに染まり、遠くの方から童謡のような音楽が聞こえはじめる。気が付けばもう、自分の家の前だった。母は手を離して、玄関の鍵を開けた。そして振り返ると、ぼくの頭をぽんぽんと軽く叩いて、内緒話のように耳元に口を寄せる。


 教えてくれたら外出を禁止しない、なんて約束もしちゃったし、しょうがないか。本当はコウスケのことが、心配なんだけどね。でもせめて、これからは一言声をかけてから出かけなさい。いいね?


 ぼくは驚いて、母の顔を見つめた。予想していなかった言葉に、返事が思いつかなかった。そんなぼくのことを、母は目を細めながら、ずっと撫でていてくれた。

 きっと母も、似たような体験をしたんだろう、と思った。母が子供のときにも自分だけの友達、イマジナリーフレンドがいて、それは心の負担を軽減する逃げ口のようなものであって、決して悪影響を与えるような存在ではないということを、知っていたんだろう。だからぼくが、×××に会うことを許してくれたのではないだろうか。

 母のおかげで、ぼくはこそこそとしないで外に出られるようになった。翌日に、早速空き地に報告をしに行くと、×××はとてもびっくりしたようだった。


 もう、来ないと思ってたから。


 ぽつりと零す彼女の姿は、いつもより小さく見えた。

 どうやら×××は、母が怒ってぼくを外出禁止にするだろう、と予想していたようだった。だから元気がなかったのだろう。ぼくは、彼女の気持ちを理解したつもりになっていた。

 でも考え直してみると、それだけの理由ではなくて。ぼくが×××のことを怖がって、もう来てくれないんじゃないか、嫌われてしまったのではないかと、不安を感じていたのだろう。この時点のぼくは単純で、そんなことは全く思いつかなかった。だからよくわからないけど胸を張って、大丈夫だよ! と大声で答えた。

 ×××は、一度目をぱちくりとさせると、ぼくのそのポーズが面白かったみたいで、ぶふっ、と吹き出した。


 コウスケも、お母さんも、いい人だね。


 ×××は、興味深そうな様子で、もっと聞かせて欲しいと頼んだ。いつの間にか話題は、ぼくの両親のことになった。母はどんな人なのか。いつもなにをしているのか。どんな料理を作ってくれるのか。桜の根っこに腰掛けて、×××は目をキラキラとさせて質問をする。ぼくは、彼女に家族はいないのだろうか、と疑問に思った。すると今度は、父のことを知りたいとせがまれた。

 正直、ぼくは父のことが嫌いだった。家の中ではいつも偉そうにしていて、料理も掃除もなにもしないくせに、ぼくのことを怒鳴って叱りつけてくる。勝手に引っ越しを決めたのもそうだし、そもそもあの変な髭が気に入らない。あまり話したくなかったから、仕事でラーメンを作っているよ、とだけ答えた。すると×××は、四つん這いになって、ぐっと身を乗り出した。


 ラーメンってなに!


 ここまで食いつかれるとは思わなかった。説明をするのも面倒なので、小さいころから父に読み聞かせられていた、もはやすっかり覚えた小説の一節を諳んじた。

 ――どんぶりの底に静かに横たわっている縮れ麺。スープの表面にきらきらと浮かぶ無数の油の玉。油に濡れて光るシナチク。早くも黒々と湿りはじめた海苔。浮きつ沈みつしている輪切りの葱たち。そしてなによりも、これらの具の主役でありながら、ひっそりとひかえめにその身を沈めている、三枚の焼き豚。

 彼女はごくり、とつばを飲み込んだ。そのポーズから上半身だけを反らせて、手のひらを胸の前で組み合わせた。


 ああ、ラーメンを食べてみたいなあ。


 ×××はどうやら、ラーメンの魅力にすっかりとりつかれたようだ。膝立ちのまま、待ちきれないように体を左右に揺すっている彼女に、今度食べさせてあげるよ、と囁いた。×××はうれしそうに、にっこりと笑った。

 それからぼくたちは、今までと同じように時間を過ごした。春の陽差しの下、空き地の中を走り回ったり、競争したりして。疲れたら原っぱの上に素足を投げ出して、二人揃って寝転んで。蝶々がふわふわと漂うのを目で追ったり、たんぽぽの白い綿毛に息を吹きかけたりして。やがて素肌がじりじりと焼ける感触が強くなってきて、気が付けば夏になっていた。


 しだれ桜の木陰に二人並んで、腰を下ろして。家から袋に入れて持ってきた、青色の棒状のアイスを取り出した。それは細長いフランクフルトを二つ繋げたような見た目をしていて、真ん中に力をこめて曲げると、ぽっきりと折れた。

 二本になった棒状の頭を×××が、お尻側をぼくが、折れた部分から咥えて、ちゅーちゅーと吸い込む。溶けた部分から、口の中に流れ込んでいく。ちょっとだけ水っぽい、ブルーソーダの味がした。ぼくはいつも、なかなか溶けない氷にいらいらして、薄いビニール越しに噛み砕いて食べていた。彼女はそんなぼくを見て、せっかちだなあ、と口を開けて笑う。×××は完全に溶けきっていない、シャーベット状が一番好きなようだった。


 日が暮れる時間が、だんだんと早くなる。暑さが引いていき、冷たい空気が体に張りつく。無数に飛ぶオニヤンマを目にして、秋の到来を感じた。

 ぼくは空き地の隣にある酒屋の、店頭の段ボール箱からいくつかのおもちゃを選ぶと、それを買って×××に渡した。彼女は、最初は警戒した様子だったけど、虹色の大きなバネを手にとって触っているうちに、すっかりと夢中になったようだ。本当はバネが階段を降りていく動きが面白いはずが、空き地には段差はないから、両端を左右の手で持って、楽器のアコーディオンのように伸ばして縮めて楽しんでいる。こんがらがってしまうと、今度は別のおもちゃに手を出した。

 絵柄が入った一枚の薄い発泡スチロール板。切り取り線に沿って分割して、一番大きい胴体の中央に穴を開けて、その中にもう一枚を貫通させて、ぎゅっぎゅっと押し込む。先端に小さなプロペラを取り付けて、発泡スチロール製の戦闘機が完成した。

 空き地の中をどれだけ飛ぶか、二人で競争することにした。オニヤンマが浮遊する中を、青と緑の戦闘機が滑空する。それはまるで、沈んでいく赤々とした夕日の中に溶けこんでいくようだった。思っていたよりも飛距離がでたことに、×××がはしゃいで喜んでいる。ぼくはその横顔を見て、この時間がずっと続けばいいと考えていた。


 吐く息が白くなって、商店街のシャッターが全部一斉に閉じて、夜中に遠くからの鐘の音を聞いて。ぼくは首に青色の毛糸のマフラーを巻きながら、空き地に着いた。

 ×××は相変わらずの薄着のままで、隅っこにできた霜柱をざくざくと踏んづけていた。気が付くと駆け寄ってきて、二人で暖め合うようにぴったりとくっついて座る。一つのマフラーを二人で巻きつけて、頬を寄せた。それは他愛のない時間だけれど、やはりいつまでもこのままでいたい。そう思える、充実した一時だった。だからぼくは、声に出した。


 春になったら、学校に行こうと思うんだ。


 ぼくの肩に頭をのせていた×××は、ゆっくりと顔を起こした。彼女のおかげでここまで回復できたこと、この場所でもっと一緒にいたいということ、だからこそ今の自分自身の問題と向き合って、ここで生活ができるようにしたいという考えだった。

 その第一歩として選んだのが、長い間休んでいた小学校への復帰だった。四月になればクラスも変わって、少しは通いやすくなるかもしれない。それにもし友達ができたら、×××も一緒にみんなで遊べる。それはとても素晴らしい計画のようだった。でも彼女は、あまり嬉しくなさそうに首を振った。


 コウスケも大人になっちゃうのか。


 ぼくには、×××の言葉の意味がわからなかった。でも彼女が寂しそうなことだけは、はっきりとわかった。

 ぼくは大人になんかならないよ。安心させたくてそう言ったけど、彼女の表情は変わらなかった。


 ▲▲は大人には見えないから。最近の子供たちはみんな、勉強や漫画、ゲームで知識だけが一足先に大人になる。だから学校に通う子供たちにはたぶん見えないし、コウスケもわたしのことを見えなくなる。そして▲▲のことなんて、すぐに忘れるよ。


 ぼくは、そんなことはないと思った。いつかのように、大丈夫だよ、と手を握って伝えたけれど、彼女は魂が抜けたように、ずっと冷たい空を見上げているだけだった。

 それからは、お互い気まずい毎日が続いていた。いつものように原っぱでは会えるけど、どこかぎこちなさを感じていた。それはたぶん、仲のいい友達と喧嘩をして、仲直りをしたいけれど、自分から言い出したら負けたような気になる、そんな頑固さだった。

 でもそれだけではなくて、×××にとってはもう二度と逢えなくなる、別離の悲しさがあったのかもしれない。その時間がずいぶんと長引いてしまったから、ぼくはもう口で言うのをやめた。行動で証明するしかないと思った。小学校に通い直して、×××が見えなくならないということを、彼女に教える。それがぼくに唯一できる、彼女への恩返しだった。だけどその決意は、突然の出来事であっけなく崩れてしまうことになる。

 五年生になる二ヶ月前、まだ冬の寒さが抜けきらない初春。休日で母が買い物に出かけている間に、父はリビングでテレビを見ながら、思い出したように声を出した。


 コウスケ、三月に引っ越しをするぞ。




 第9話 悔恨 へ続く...

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