第7話 境界線

 さて、▲▲に入る文字はなんだったかな。


 浩輔は、部屋の中を掃除していた。ワンルームに唯一ある、小さな収納の戸を開ける。奥に積んであった段ボール箱を引っ張り出して、フローリングの上にどかどかと載せていく。膝をついて、なにもなくなった空洞を隅々までスマートフォンのライトで照らした。ひとしきり調べ終わってから、立ち上がって雑多な室内を見返すと、まるで玩具箱をひっくり返したような有様だな、と思った。

 この作業をはじめる三十分ぐらい前。浩輔は夕食、ご飯にコンソメスープ、トマトと豚肉のボイルを手早く料理して食べると、床に座ったままぼんやりとテレビを眺めていた。


 夜のロードショーでは映画『魔女の宅急便』が放送されていた。田舎で家族と生活をしていた女の子キキが、十三歳の満月の夜に、一人前の魔女になるために、一人で都会に旅立つという物語だ。故郷の友達に見送られて、箒に跨って危なっかしい飛行をするキキと、一緒に連れ従う黒猫のジジが、ラジオのスイッチを入れた途端に、アップテンポのテーマソングが流れはじめる。

 女性歌手の独特な歌声を聴きながら、脳裏ではさっき思い出したばかりの回想、×××が答えづらそうにしている場面が再現されていた。


 ▲▲だから、家が原っぱなの。


 記憶のフィルムの映像と台詞を、口の中で反芻する。彼女の言葉通りに捉えると、▲▲に当てはまる文字は、かなり特殊なものになるだろう。思いついた順番に、手元にあったレポート用紙に箇条書きにしてみる。


 一、飯事ままごと。そういう設定で遊んでいただけの、近所の子供。

 二、家出。親と喧嘩して、家を飛び出している真っ最中。

 三、孤児。親がいない、もしくは家をなくしたホームレス。

 四、原住民。あそこで生まれ育った野生児。いや、そもそも二文字じゃないか。


 考えれば考えるほど、答えからズレていくような気がする。頭の中を整理するように、指先でくるくるとペンを回す。そして今度は、他の言葉から追究することにした。


 ▲▲だから、ここからは出られないの。


 出られない、というのはどういうことだろうか。自分の意思で敷地の外に行きたくないのか、それとも誰かに言いつけられているのか。どちらにしても、レポート用紙に挙げた一から四は、どれも的外れのように思えた。

 もし、本当に出られないとしたら。あの中に閉じ込められているとしたら、どうだろう。浩輔は、ふっと浮かんだ思いつきに、なにかが閃くような感覚がした。さらに掘り進める。強制的ななにかで、その土地から離れられないとしたら。それはもしかすると、人間というよりも……


 五、地縛霊。あるいは、その土地に住む神様。


 まさかな、と笑いながらペンを放る。馬鹿馬鹿しいと思った。そんなことがあるわけがない。彼女が幽霊の類だなんて。自分の頭が小学生から成長してないように思えて、少しだけ愉快になった。だが想像しているうちに不思議と、彼女があの場所から出られないという言葉自体には、真実味を帯びてきたように感じた。

 彼女はまだ、あの空き地にいるのだろうか。子供の時と同じように、草原に寝転んで大空を見上げているのだろうか。昔と変わらないまま、ずっとそのままで。


 また想い出の場所に、行きたい。

 そう考えると、行動に移すのは早かった。浩輔は小学校時代の手がかりを見つけるために、部屋の中を捜索することにした。どこかに、あのときの自宅の住所がわかるものがあるかもしれない。自宅の場所にさえ行ければ、そこから空き地にも辿り着けるはずだった。

 だが、ワンルームを掃除しても、収納から段ボール箱を引きずり出して調べてみても、どこにも過去の痕跡は見つけられなかった。少し落胆はしたが、同時に納得もしていた。一人暮らしをはじめる時の引っ越しで、生活に必要なものしか運んでこなかったからだ。小さい頃の想い出の品は処分するか、実家に置いたままだった。帰れば見つけられるかもしれないが、それはあまり気乗りがしない。でも、それ以外に当てがないのも確かだった。それに、親に聞けば絶対に覚えているだろう。


 浩輔は、スマートフォンから電話帳を呼び出した。実家の電話番号は、どこに登録しただろう。少し弄っているうちに『その他』のカテゴリーから見つかった。着信履歴には、一年前の日付が表示されている。

 浩輔は、ゆっくりと息を吸い込んで吐いた。それから、親指で通話ボタンを押した。

 数回のコール音。やがて、回線が繋がった。


「もしもし」

 嗄れた声が聞こえる。父親だ。

「もしもし、浩輔ですが」

 ひさしぶりの電話で緊張してつい、敬語になってしまう。受話器の向こうから、ああ、と息が漏れるような音がした。

「なんだ、お前か」

 浩輔は、苦笑した。一年ぶりの電話の第一声がそれか。だが父相手ではいつものことなので、あまり気にしないようにする。


「どうした、突然。最近はどうだ? 元気にしているか?」

「うん」

「ご飯は食べているか? 仕事はしっかりしているのか?」

 昔に比べて、父はどこか覇気がないように感じた。記憶の中では、威厳があって叱責ばかりしていたはずだが、特に六年前に自動車同士の衝突事故を起こしてからというもの、目に見えて勢いが衰えていた。

「まあ、ぼちぼちってところだね」

 言葉を濁すと、受話器の向こうから呻るような音がした。

「なんだ、ぼちぼちっていうのは。そんな適当な考えで仕事をしているのか。お前には社会人としての責任がないのか。どうせパソコンだかなんだかわからんものを弄っているからだろ。もっと人と接するようにしろ。いい加減くだらんお遊びなんかやめて、俺の会社に入ってみたらどうだ」

 電話をしたくない理由の一つが、これだった。父はなにかとつけては、自分の家業を一人息子に継がせようとしてくるのだ。ちなみに父の仕事は、ラーメン屋だ。高井戸家代々から伝わる老舗のラーメンの味に陶酔し、祖父の下で長い期間修行を受けていたが、自分自身に職人としての才がないと気付き、それからは製造過程の効率化やマネジネントに力を入れて、そしてチェーン店を出すまでに大躍進した。今日の昼に食べたカップラーメンの二個がそれで、パッケージには『高井戸らあめん』という達筆の文字が躍っていた。


 父はしばらく自慢話を続けた。自分がいかに努力をしてきたか、最近の若者には熱意が足りないとか、ラーメンがどれだけ美味しいか、その開発や営業に携われる人間がどれだけ幸福か、そしてそれがわからない連中はどれだけ愚かなことか。

 放っておけば延々と喋っていそうだった。付き合いきれなくなって口を挟む。

「その話は、今はいいんだけどさ。父さんに聞きたいことがあって」

「なんだ、聞きたいことって」

 話を遮られたのが気に入らないのか、剣呑な雰囲気になった。

「父さんは覚えているよね? 僕が小学生の時に転校をして、引っ越した先の家のこと」

「それがどうした」

「あの家の住所を教えて欲しいんだ」


 途端に、父は狼狽した。

「な、なんだ。どうしていまさら、そんなことを訊く」

「なんていうか……ひさしぶりに行ってみたくなってさ。あの小学校の時のことを思い出して、なんだか懐かしくなってね。だから……」

「なにを言っているんだ、お前は!」

 突然、受話器から怒声が響いた。

「お前は、そんなことをしている場合か! 昔の場所に行ってみたい? 自分探しの旅のつもりか。最近の連中はなにかといえば理由をつけて、現実から目を背けてばかりいやがる。いつまでもガキみたいなことを言ってるんじゃない! いい加減大人になれ! もう意地を張ってないで、俺の仕事を早く……」

「ああ、わかったよ。もう父さんの話は、うんざりだ!」

 浩輔は通話を切った。最後は思わず、叫んでいた。胸の奥から熱いなにかが、こみ上げてくる。奥歯を噛み締めて、必至に堪えた。

 そのままマットレスに座り込む。両手で水滴がこぼれそうな目を、覆い隠した。わかっていた。こうなることは、予想できていたはずだった。それでも悔しさと、やりきれなさに頭痛が激しくなりそうだった。


 父親の仕事を断った日から、親子仲は断絶したようだった。父は自分自身が認めないものには徹底的に批判し、扱き下ろし、唾を吐く。自分の世界だけで生きてきたような、異常に視野の狭い人間だった。そんな父親の元から離れたい気持ちもあって、全く違う職業の会社に勤めて、一人暮らしをはじめた。

 子供の頃から病気持ちで、両親に面倒をかけてばかりだった。自分に自信が持てなくて、情けない毎日だった。早く自立して、一人前の大人になりたかった。恩返しだって考えていた。だがその結末は、取り返しの付かないほど瓦解した家族関係だった。

 浩輔は、頭を抱えるようにして俯いた。脳裏では、父親の雑言が何度も残響していた。


 いつまでもガキみたいなことを言っているんじゃない。いい加減大人になれ。

 それは一人前の大人になることを志していた浩輔にとって、一番残酷な言葉だった。親離れをして、自分だけの道を開拓して、毎日会社で身も心もすり減らして働いている。その自分自身が積み重ねてきた人生のすべてを、否定されたように感じていた。どうして父は、いつも傷つけることばかりを言うのだろう。

 そのノイズに混ざるように、激しく雨が降るような音がした。顔を上げると、テレビの画面内では、魔女見習いのキキが、大雨の山中で荷物を抱えて、濡れながら配達をしているシーンだった。それはキキが都会に訪れて、魔女を受け入れてくれない大人達の中で、必死になってやっとの想いで見つけた、空飛ぶ魔法を使った配送の仕事だった。彼女はその仕事や新しい出逢いを通じて、自分自身も大人に成熟していく。牧歌的な風景の故郷を離れたキキは、かつて冷たい対応をされた都会の大人達に、彼女自身が慣れ親しみ、溶けこんでいく。そして弊害として、生まれつき覚えていた魔法が上手く使えなくなり、黒猫のジジとも会話ができなくなってしまう。その顛末に浩輔は、どこか自分を重ねて見ていた。


 大人って一体、なんだろう。


 自分の中では、一人で生活をして、会社で働いて給料をもらって、心身共に大人になったと思っていた。でも、父はまだまだ子供だという。そもそも、大人になるということはどういうことだろう。なにを基準に、大人になったといえるのだろうか。いやそもそも、どうして大人にならなくてはいけないのだろうか。

 浩輔は、おもむろに立ち上がると、窓を開けて靴下のままベランダに出た。スチールの手すりを掴んで、夜空を見上げる。民家の灯りがあるせいか、星はほとんどなかった。でも、今にも消えてしまいそうなわずかな輝きが、頑張って目を凝らせば、確認することができる。


 つらいことや困難に遭った時には、空を眺めるのが癖だった。それは小さい頃の草原の習慣だけではなくて、はっきりとは思い出せないが、どこかずっと遠い場所で交わしたような――色褪せた、懐かしい約束のように感じられた。

 まだ大丈夫。まだ、大丈夫だ。

 浩輔はゆっくりと息を吸った。春の穏やかな夜気は、感情の昂ぶりを抑えるような心地よさだった。




 第8話 大人になんか へ続く...

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