第9話 悔恨

 浩輔は夕暮れの中、肩を落としてアパートへの帰り道を歩いていた。


 二連休の日曜は、卒業をした小学校に、実に十一年振りの訪問をしていた。大怪我でなくした記憶の、新しいスタートラインだった場所だ。

 この校舎で過ごした期間は、小学校五年生の時に転入してから卒業までだったから、その以前に在校していた小学校の名前か、もしくは引っ越し元の家の住所が、記録として残っているかもしれない。それがわかれば、地図を使って空き地の場所まで辿ることができるだろう。そう考えての行動だった。

 事前に学校側には、電話で承諾をもらっていた。だが実際に到着してみると、受付にいる職員の中年男性に、個人情報の保護を言い訳に渋られて、校内に立ち入ることさえもできなかった。自分の住所の記録を見せて欲しいだけだと食い下がると、職員は明らかに嫌そうな、人を小馬鹿にするような溜息をついて言った。


 旧校舎での不審火。ニュースにもなったらしいその事件は、警備体制を厳重にさせて、また学校の一部を建て替えざるを得ないほどの規模のものだったようだ。入口から見える範囲だけでも、廊下の壁や柱の所々に補強した部分が確認できる。

 その火災は資料室の近くから発生して、学校の過去の記録や、児童達の情報を燃やしてしまった。だから、安易に部外者を入れることはできないし、なにも残っていないだろう。職員は面倒くさそうに、そう説明をした。


 浩輔は、アパートの鍵を開けた。ワンルームの部屋に入ると、フローリングの床に座り込んだ。

 全身が、無気力になってしまったようだった。連休最後の日に、せっかく一日掛けて足を運んだのに、なにも手がかりが得られなかった。全くの無駄足だったことに、深く落胆をしていた。

 帰り道の途中で寄ったコンビニの、白いビニール袋をテーブルに載せる。ラガーの缶ビールやアイリッシュウィスキー、炭酸水、あたりめ、チーズ鱈、ビーフジャーキーといった、酒とつまみを次々と並べた。飲み物はあまり冷えていなかったが、そのまま缶ビールのブルタブを開けて、口蓋に流し込んでいく。普段は、あまり酒は飲まない。わざわざ購入したのには、憂さ晴らしもあったが、それとは別の大きな理由があった。


 もう一つだけ、空き地の場所を割り出す方法がある。ただそれは、できれば避けたかった。酒でも飲んで気を大きくさせないとできない、奥の手だった。

 浩輔は口元を拭いながら、スマートフォンを操作する。電話帳を隅々まで探して、目的の宛名を見つけた。だが、寸前で躊躇ってしまう。まだ酔いが足りていないと思い、キッチンの前に立つと、グラスにウィスキーと氷、炭酸水を適当な割合で混ぜて、簡単なハイボールを作った。一、二杯は炭酸水を多めで、三杯目はほぼロックで飲み干した。腑が熱くなり、視界が少しぐらついた。マットレスにどさりと腰を掛けると、その勢いのまま電話をかける。


 もしかすると、もう時間が遅いから繋がらないかもしれない。むしろそうあって欲しいと、心のどこかで期待をしていたが、それに反してすぐに、機械音のガイダンスが流れはじめた。指示に従って、該当する数字を入力する。ほどなくして、電話担当者に繋がった。

「お待たせいたしました。電話をお取り次ぎする、入院患者様のお名前を教えて下さい」

 緊張して、何度か言い間違えてしまった。電話口の、しばらくお待ち下さい、という淡々とした声の後に、保留中のクラシックの音楽がかかる。浩輔は、じっとしている間に、段々と心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。思わず、左胸を手のひらで押さえる。


 なにを話せばいいだろう。聞きたいことは決まっているはずなのに、今さらそんな考えが頭をよぎった。いろんな言葉や感情が、ぐるぐると渦巻いている。整然としないまま、相手が電話に出る音がした。焦って、スマートフォンを耳に押し当てる。

「もしもし?」

 年配の、低い女性の声。浩輔は、ごくりと唾を飲み込んだ。なるべく平静を装うとしたが、自然と熱の籠もった言葉が出る。

「母さん?」

「え?」

 お淑やかな雰囲気が、どこか懐かしい。

「母さん、お久しぶりです。浩輔です」


 母と会話をするのも、父と同じで、実に一年ぶりだった。そのせいか、やはり敬語になってしまう。息を止め、耳を澄ませて、返事を待った。

 受話器の向こうからは、不思議そうな声がした。

「あのう、どちら様ですか?」

 表情が凍り付いた。思わず、言葉に詰まる。

「む、息子の浩輔です。あなたの息子の……」

 浩輔は、懸命に言葉を絞りだそうとした。だが次第に声が小さくなり、嗚咽が混じりそうになる。誤魔化そうと、わざと大きく咳き込んだ。


 母親のはずであるその人は、よく理解できていない様子だった。なにかを喋ろうとはしているのだが、もごもごとした呻り声で終わってしまう。やっと口を開く気配がしたが、続きを聞くのが怖くなってしまった。急いで、遮るように話す。

「その、お元気そうで、よかったです。それでは、失礼します」

 辛うじてそれだけ言うと、通話の終了ボタンを押した。そのまま力なく、スマートフォンを持つ手を降ろした。


 若年性認知症。母にその症状が現れ始めたのは、浩輔が大学四年生で、就職活動に勤しんでいた時期だった。最初は、物忘れの頻度が少し増えたぐらいにしか感じていなかったし、母本人も特に気にしていなかったから、病院に連れて行くこともなかった。だが浩輔が会社に就職して、一人暮らしをはじめてから二ヶ月後に、母が突然倒れたという連絡を受けた。医師の診断だと、若年性認知症、軽度のアルツハイマーということだった。

 この時期には、たくさんの出来事が重なりすぎていた。浩輔の一般企業への就職、父との大喧嘩、そして母の入院。働き始めたばかりの浩輔は、あまり見舞いに行く時間も取れなかったし、父も来ることを嫌がっていた。母自身にも、心配をしないで仕事を頑張りなさいと、応援をされた。そしてだんだんと疎遠になるにつれて、浩輔は母に会うのが怖くなった。日に日に欠けていく、母の記憶。もし次に見舞いに行った時に、自分自身を忘れられていたら。そう思うと、足が病院に向かなくなっていた。

 その状態が続いて、早一年。×××のことを聞くためだという言い訳と、父親への反抗心から、酒の力を借りて、久しぶりに電話をかけた。だが結果は、思った通りの残酷なものだった。


 浩輔は、歯噛みした。もうどうしようもないし、どうすればいいのかもわからなかった。ただ一つ思うのは、今自分はこんなことをしているべきではないんじゃないか、ということだった。父親に言われた通り、子供の頃を懐かしんでいる場合ではなくて、病気の母が安心できるような姿を、いち早く見せてあげるべきじゃないだろうか。

 もう一度、スマートフォンの画面を起動した。アプリのスケジュール帳を開くと、明日からの日程には、ぎっしりと仕事が詰まっている。次に空いているのは、一週間後の日曜だけだった。

 ×××との想い出の場所探しは、その時に考えよう――浩輔はそう納得させると、テーブルの上にわずかに残っていたハイボールを、一気に飲み干した。明日から再開する、仕事の憂鬱な日々を、想像しながら。




第10話 どこにでも行ける背丈 へ続く...

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