第2話 春の来訪者
ぼくは生まれつき体の弱い子供だった。
それは母の遺伝で、どうやら貧血の一種らしい。頭の片隅に血が集まっていき、一定量を超えると、目の前にじわじわと、墨汁の一滴を紙面に落とすように、黒い球体が染み出てくるのだ。ひどい時には、そのまま気分が悪くなって意識がなくなってしまうこともある。
その病気のせいで、ぼくには小学校の楽しい想い出があまりなかった。授業中には目眩がして保健室に行くことが多かったし、学校外でのイベントには出る体力もなくてほとんどを欠席していた。帰宅する時にはいつも近所の友達に付き添ってもらっていた。この症状は特に子供の時に現れるらしく、今でこそ薬を服用して毎日会社勤めをしているが、当時のぼくには学校に通うことが大変な苦労に思えたものだった。
小学校三年生の秋に、ぼくは転校をした。父親の仕事の都合だったが、ただでさえ休みがちだったぼくにとって、それは最悪の事件だった。全く新しい環境になって、近所に住んでいる仲のいい友達がいなくなる。自然と作り上げられていた居心地のいい世界が、無理矢理引き剥がされてしまうようだった。
新しい学校に移ってからぼくは、さらに体調が悪くなった。知らない通学路はそれだけで頭を圧迫するし、知り合いのいない教室はひどく息苦しかった。保健室に行きたいと手をあげることが、とても辛かった。だから授業中にまたじんわりと黒い染みが現れては、そのまま気を失って、椅子から崩れ落ちて床に倒れた。薄れていく意識の中で、知らないみんなからの視線を感じた。慣れるまでの辛抱だとは父親から何度も言われたけど、それよりもぼくが精神的に限界を迎えるほうが早かった。
四年生の春に、自宅療養になった。とうとう学校へ通うこともできなくなったぼくは一日を、二階の自分の部屋、ベッドの上で過ごすようになった。
部屋の中はとても殺風景だった。刺激になる色はすべて排除され、清潔感のある白やクリーム色だけで構成されていた。テレビゲームや漫画もなく、あるのは小学校の真新しい教科書だけ。ぼくはいつも部屋の電気を消して、傍の少ししか開かない窓から入る日の光で。ベッドから上半身だけを起こして、白い壁面に漂う黒い染みをぼんやりと眺めていた。
ぼくはこのままだと、ダメになってしまうかもしれない。当時のぼくには、病気について詳しい知識はなかったけど、漠然とそう感じた。そしてこうも思った。べつにダメになってもいいかな、と。
どうせ元気になったら、また学校に行かなくちゃいけない。つまらない授業も、友達のいない教室も、みんなの冷たい目も、もう嫌だった。またあんな思いをするぐらいなら、ずっと病気のままで、自分の部屋の中にいたほうがずっといい。それに父親も、慣れるまでの辛抱だと言っていた。だからこの生活も続けていればそのうちに慣れて、苦しいこともつらいこともわからなくなる。それでいいじゃないか……
ふと、色彩のない部屋に。
ピンクの模様が、現れた。
実際には、窓のほんの少しの隙間を縫って、外から吹き込んできた桜の花びらだったのだけれど、そのときのぼくには突然目の前に出現したようにしか思えなくて、目を大きく開いて驚いた。
お腹までかけたシーツの上にゆるやかに着地したそれが、とても不思議なものに感じられて、最初は指先でおそるおそる触った。それから、親指と人差し指で慎重に摘み、顔の高さまで持ち上げた。
小さな桜の花弁。
ぼくはその来訪者を、しげしげといろんな角度から観察した。表側を見て、裏側から見返して、手のひらにのせた。どうやってここに来たのだろう。そう考えて、この花びらが来た道を辿るように、窓から外を見た。ベッド横にあるその窓からは、上半身を起こした体勢からちょっとだけ腰を浮かせれば、景色を眺めることができる。だが見渡してみても、ピンクの花びらを咲かせた桜の木は見つからなかった。
でも代わりにぼくは、なんだか奇妙なものを発見した。
それは少しばかり離れた奥の住宅地の中にある、ぽっかりとした空き地だった。頭を垂れた柳のような木が中心に生えているだけで、遊具がなにも置かれていないその場所は、すぐに忘れてしまいそうだったけど。
そこには、一人の子供がいた。
枯れているような、弱々しい木に寄り添うようにして。
すると子供は、ぼくが見ていることにすでに気が付いていたのか、驚いた様子もなく、にっこりと自然に微笑んだ。そしてその子供の手には、今ぼくの指先にある、薄桃色の欠片と同じものが摘まれている――ように見えた。遠くてはっきりはしない距離だったけれど、その時のぼくには不思議と確信があった。
ぼくはどうしてか、その光景に目を奪われた。周囲の音も空気も、どこかに吸い込まれたように消えて。止まった世界の中で、その子の笑顔をただ、眺め続けていた。
第3話 終電車 へ続く...
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