第3話 終電車
大きな振動がした。
浩輔は、はっと意識を覚ました。惚けたように、辺りを見回す。
そこは電車の中だった。どうやら吊革に掴まったまま、眠っていたらしい。車内のモニターを見上げると、次に停車する駅の名前が表示されていた。降車駅はまだ先だ。安心して、ほっと溜息をつく。
ここ連日は、深夜までの残業が続いていた。請負先への引き渡しのために現地まで行き、会社に戻ってからは設置したばかりの機械のトラブル対応に追われていた。それに明日からの休日のため、今日中に残っていた仕事の処理や引き継ぎを終わらせなくてはいけなかったから、特に忙しい一日だった。だが明日と明後日にはやっと、一ヶ月ぶりの休みだ。思う存分、羽を伸ばすことができる。
この緩急の激しい生活には、入社してからもう一年が経つが、未だに慣れることができなかった。もともと体が弱いのもあって、無理をしすぎないように注意をしないといけない。
そう、体が弱いのは小学生の年齢からだった。浩輔は、微かに伸びた顎髭に手を当てながら、思考を巡らせた。脳裏には、つい先ほどまで再現されていた、小学校の頃の映像がまた浮かび上がっていた。
ずいぶんと懐かしい夢を見ていたと思う。今から十四年前の、転校先の小学校の想い出。自宅で療養生活をしていた十歳の自分と、窓の外にいた一人の少女。そして、こうして思い出せたのも十四年経った二四歳の今、初めてのことだった。なにしろ、過去の記憶を失ってしまっていたのだから。
浩輔は一一歳の時に、大怪我をした。それは頭部に大きな損傷を与えて、記憶障害を引き起こすほどのものだった。一時的なショックによる記憶喪失のはずだったが、後遺症は今でも続いていて、新しく覚えることは問題なくできるのだが、怪我以前の出来事をはっきりと思い出すことができない。
怪我の原因も、はっきりとは覚えていなかった。意識を取り戻した時には、すでに病院のベッドに横たわっていた。顔中に包帯がぐるぐるとまるでミイラのように巻かれていたことと、ある程度回復した段階で担当の医者から、とても大きな事故に遭ったという説明を受けたことだけは、ぼんやりと記憶に残っていた。
そっと、後頭部に手を当てる。指先でわずかに、でこぼことした縫い目の感触を確認できた。この頭部への衝撃のせいで、事故よりも前の記憶がなくなったはずだった。それなのに仕事中に突然、小学校の想い出が蘇ったことに、驚いたと同時に歓喜もしていた。怪我のせいだから仕方がないと諦めていたけれど、やはり自分の幼少期のことは知りたかった。
そして回想の方法も、特殊だった。十歳の自分の中に、今の社会人の自分が入り込んだような。子供の頃の日常を、大人の思考と目線で一つ一つ辿っていくのだ。もちろん、すでに起こった出来事だから書き換えることはできない。まるで今乗っている電車のように、レールに沿って目的地までひたすら進んでいく。方向を変えることも停止することも不可能で、ただ物語を一人称視点で眺めていることしかできない。だがそれは実に奇妙で、面白い体験だった。早く、さらに次の話を見てみたいと思う。
浩輔は、吊革を握る手に力を籠めて、目を瞑った。深く息を吐いて、もう一度回想を試みようとする。今度は睡魔に負けないようにと、意識を水面下に潜らせた。
もっと、記憶の海に沈み込むように。
もっと、ずっと。さらに深く。
第4話 ××× へ続く...
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