蝶々の恩返し

加科タオ

 ちょうたぐいが苦手だった。


 夜、風呂場の小さな窓に引っ付いている姿、春先になってふわふわ柔らかい光の中に舞う姿。どの様子を見てもぞっと悪寒がする。


 これを人に言うと大体馬鹿にしたように笑われた。「男のくせに虫が怖いなんて情けない」「蛾はまだ分かるけどどうして蝶まで」「あんなかわいいものを嫌うなんて変なの」ってさ。


 僕はそれらの言葉に反論出来た事が無い。口に出そうとした言葉をいつもぐっと飲み込んで、誤摩化すように笑って今までやってきた。僕は僕が蝶の類を嫌う理由を知っている。けれど、人に話すには少しはばかられる内容だから。いや、大分憚はばかられる内容なんだ。僕にとってはね。


 小学校に入りたて位だったかな。もしかしたらもう少し大きかったかもしれない。まあ、とにかく僕が子どもらしい子どもだった頃の話だ。


 幼心にも、僕には好きな子がいた。小柄でかわいい同い年の女の子。くりっと大きな目は人より多く光を取り込んで、キラキラと光っていた。僕はその目の輝きがとても好きだった。彼女の目に僕が映った日には鼻歌を歌っちゃうほど機嫌が良くなったものだった。


 ある日、そんな大好きだった彼女が蝶を集めている、ということを僕に教えてくれた。


「標本にするの。お兄ちゃんが作っててね、すごく綺麗だからわたしも作るの。」


 そう言った彼女の目が常より一段と輝くのを見て、僕は協力しようって思ったんだ。標本の作り方なんてろくに知らないくせにさ。ただ彼女の目がキラキラ光るのを見たくって、それでついでに彼女に好かれたらいいな、なんて単純な理由で。


 だからその日、彼女と別れた後に僕は蝶を殺した。


 一人で外を歩いているとき、たまたま見つけた蝶だった。そいつは紫色の小さい羽を二枚、背中で縦にぴったりくっ付け、地面に止まってじっとしていた。僕が近寄っていっても微動だにしない大人しさが不思議だった。


 それで、踏みつけた。確実に捕らえるために素早く一回だけ足を下ろした。ゆっくり上げた足の下、地面の上には蝶がいた。右の羽だけが地面にこびり付き、左の羽は少しの風になびいて細かく揺れていた。僕はその場にしゃがんで、少し迷ってから蝶の左翼を摘んだ。慎重に引っ張ると、指と羽が触れ合った部分から鱗粉が散り、その一部は蝶の身体から出た少量の液体の上に浮かんだ。その様子を見て僕はぞくりと背中が冷えた。


 蝶は比較的原型を留めたまま地面から剥がすことが出来た。右の羽は傾いていたし、触覚と足の何本かは欠けてしまっていたけれど、それくらいは気にならないと思った。


 こっそりと自宅へ帰った僕は丁度キッチンにあった空のジャム瓶に蝶を入れた。そっと摘んでいた指を開いて入れた蝶は当たり前だがピクリとも動かなかった。僕は瓶の蓋を閉め、それからしばらくじっとガラス越しに蝶を眺めた。


 瓶の底に散らばった鱗粉。髪の毛ほどもない細い細い、何本か欠けた足。昆虫特有のこちらを映さない大きな目。


 どれも、いつまで見つめていても動くことがなかった。

 


 次の日、僕はわくわくしながら学校へ向かった。蝶は家族に見られないように、こっそりと黒いランドセルに忍ばせてあった。歩くたびに細かく動くジャム瓶の気配に、吐きそうなくらい胸が高鳴った。


 家から出て教室に入るまで、これを渡したらあの子はどんな顔をするかな、なんて、僕の好きな大きな目がキラキラ光る様をずっとずっと想像していた。彼女の瞳に光と共に映り込んで輝く自分の姿まで詳細にイメージすることができていた。


 教室に入って、すぐにランドセルから瓶を取り出して彼女のいる席まで走った。女の子数人が彼女の周りを囲んでいたけど、それを割って入って彼女の顔の前に瓶を突き出した。「はい」って一言だけ口にした。何だかちょっとだけ恥ずかしかったから。


 僕は期待した。彼女からの感謝の言葉、光る目に自分の姿が映ること。


 僕の期待を一身に受け、彼女は急に顔の前に突き出されたジャム瓶を目をまん丸にして見つめた。


「ひっ」


 そう小さく声を上げた彼女は、僕の好きな目をしていなかった。


 それを見た瞬間、僕の小さな胸に満ちていた暖かな期待は急に温度をなくして重く心にのしかかった。


「……なんで、こんなの見せるの」


 彼女の周りにいた女の子がぽつりと、そう口にした。


 それを皮切かわきりにして、他の子も口々に僕を責める言葉を発した。「気持ち悪い」「かわいそう」「頭おかしいよ」とか、色々。僕は何も言えなかった。今、自分の置かれている状況、立場が分からずに、ただ呆然ぼうぜんと立ち尽くした。僕を責める誰の顔も見れなかった。ぐるぐると視界が回るような感じがしていて、見えなかった。


 途方にくれる中、彼女の顔だけがはっきり見えた。目と目が合った。その時の彼女の瞳は、幼い僕を絶望に叩き落とすには十分過ぎる色をしていた。


 僕は、彼女のためにしたはずだった。彼女の喜ぶ様が見たいがためだった。でも、彼女は今までとは違う目の色をして僕を見る。期待した輝きはない。


 じゃあ、僕は何のためにこいつを殺したんだろう。


 剥き出しの嫌悪感を周りから向けられ、言葉で、目で責められる中で僕は蝶を見つめた。


 瓶の底に散らばった鱗粉。髪の毛ほどもない細い細い、何本か欠けた足。昆虫特有のこちらを映さない大きな目。


 全部、いつまでも動くことがなかった。そうさせたのは、他でもない僕だった。


 蝶を殺した時の景色、足を振り下ろした感覚、そんなようなものが走馬灯のように頭を巡った。


 期待とか慢心とか言うものが打ち砕かれ、隠れていた罪悪感が湧き上がった。全身を瞬時に巡って、僕の体を重くした。


 光のない大きな目。それらに見つめられ、僕は小さく身体が震えた。



 そこから僕は蝶が苦手になってしまった。幼稚な考えで奪った命を思い出して、その重さに耐えられなくなるから。


 ついでに少し女の子も苦手になったのだけれど、まぁそんなことは今となってはどうでもいい。


 僕にとって蝶や蛾の類は幼い日の罪の象徴だった。自分の未完成さを思い出して、消え入りたくなるような。


 だから、驚いた。自分の耳、目、全てを疑った。


「私はいつか貴方に助けられた蝶々でございます。ご恩を返しに参りました。」


 その言葉を発して、丁度二十歳を迎えた朝、僕の部屋にあの時の蝶々が現れた。

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