第9話 大きな勘違い
血が引く音が聞こえた気がした。
まさか、このタイミングでサー・ロビンソンが来るなんて。
「どうかしたんですか? テオ殿」
ベランダに伏せたまま、身動きできない。
今の私はどう見えるだろう。不審人物、と思われるのがおちだ。そしてつまみ出されて……。さっきの見張りに見つかるのと、どっちがよかったか分からない。
「お早いですね。すみません、着替えがなかったですよね。準備させますから、どうぞこちらへ」
そう言われても、動けない。どうやったら彼の手をすり抜けて逃げられる? そればかり考えて考えて。
だから、彼の行動に気が付かなかった。
不意にわきの下に手を入れられて、ぐいと起こされた。
「ひゃあっ!」
思わず声が出て、慌てて両手で口を押えた。サー・ロビンソンのごつごつした手を服越しに感じる。
危なかった、もう少し位置がずれていたら、胸を掴まれていた。
「すみません、くすぐったかったですか? 風邪をひく前にと思って……テオ殿?」
無理やり立たされて、でも無理やり振り向かされなかった。頭まですっぽりかぶったシーツが視界を遮ってくれる。髪の毛もシーツで見えないはずだから、まだ気が付かれてないはず。
武骨な手が脇から抜かれて、そっとため息をついたところで、肩に手が乗せられた。どきりと心臓が高鳴る。
「……テオ殿ではないですね。あなたは誰ですか」
その言葉に、逃げようと体をねじった。が、肩に乗った手が押さえつけるようにがっちり掴んでいて、無理にねじろうとすると肩に痛みが走った。
もう一方の手がシーツにかかり、力任せに引っ張られた。ベルトで抑えていた部分が引き抜かれ、あっという間に寝間着一枚に戻されてしまった。それでも、肩に乗った手の力は緩まない。
緩やかに流れる栗毛の髪がかろうじて顔を隠してくれる。でも、ここにいるはずのない人間なのは間違いなくて。
両腕で自分の体を書き抱いたままうなだれる。
「おはようございます、サー、なんかあったんですか?」
垣根の向こうから声が飛んでくる。さっき様子を見に来た男の声だわ。サー・ロビンソンの声を聞きつけて寄ってきたのね。タイミング悪すぎ。
「ああ、アランか」
「さっきもなんか、そのあたりで音がしたんですよね。野良猫でも紛れ込んだのかと思って」
「ああ、実はな」
サー・ロビンソンは私のことを言うつもりだ。
とっさに振り向くと、サー・ロビンソンは言葉を切り、驚いたように私の顔をじっと見た。どれぐらいじっと見ていたかといえば、いたたまれなくなって私が顔をそむけてもなお、視線が突き刺さってくるくらい。
「サー?」
「いや、何でもない。アランの言う通り、野良猫だったようだ」
「そうですか」
「すまんな」
「いえ、では」
短いやり取りの間も、肩に食い込んだ手は私を離すまいと力を込めてくる。
アランとかいう男の足音が消えると、サー・ロビンソンは肩を掴んだまま私を室内へと押し込め、掃き出し窓の鍵を閉めた。
それから、私の手を引いたまま廊下につながる扉の鍵を閉めると、ようやく私をベッドに座らせて手を離してくれた。
サー・ロビンソンの態度がなんでこんなに変わったのかわからない。むしろ不気味過ぎて身を縮めると、サー・ロビンソンは私の前に膝をついて手を伸ばしてきた。
顔の横に垂れた髪の毛を両方とも耳の後ろにかけ、顎を引いて上を向かされる。至近距離にあるサー・ロビンソンの顔からは何の感情も読み取れなくて、むしろゾッとする。
視線の置き場に困って、顔は上を向いたものの、視線はとにかく下へ向ける。
「……その寝間着は、昨夜私がテオ殿に着せたものです。夕食に招こうと訪れたらすでに深く眠っておられたので。慣れない馬での移動でしたし、お疲れなのだろうと思って」
なんでサー・ロビンソンはその話を『見も知らぬ』私に聞かせているのかしら? 私をテオの関係者だと思っているの?
しばらくの沈黙に、私は再びひそかにため息をついた。どう反応すればいいのかわからない。こんな時……どうあしらえばいいの。
「……ですが、今のあなたは別人だ。ましてや男でさえない」
どきりと胸が高鳴った。さっき起き上がらせられた時にやっぱり触られてたのね……男のテオと比べれば、私の体にはあちこち凹凸があるし柔らかい。触られる前に、やっぱり逃げるべきだった。
「確か、どこかの国にはそういった薬もあると聞きました。……もしやそれを試されたので?」
「何を……」
否定しかけて、口をつぐむ。サー・ロビンソンは、テオが妙な薬を試した結果だと思っているのだわ。髪の色も同じで、女性化しただけだと。
そうだ。そういうことにしてしまおう。それなら今日はこの姿でもおかしくない。一晩寝れば元に戻るから、テオには手紙を残しておいて、明日交代したら、きちんと子爵に会って薬の話をしてもらおう。
ここから逃げず、テオの仕事にも穴をあけずに済む妙案は、これしかない。
「……ご存じだったのですね、サー・ロビンソン」
ぎこちなく微笑むと、サー・ロビンソンはようやく眉尻を下げた。
「脅かさないで下さい。不法侵入者として拘束するところでした」
「ごめんなさい。それにしても、どうしてわ……僕がテオだと?」
いけないいけない、テオは自分を『私』だなんて言わないものね。
サー・ロビンソンは手を伸ばして右耳のピアスに触れた。
「このピアス、形見だと聞いていましたので」
はっと手をやる。そうだわ、ベランダでサー・ロビンソンに振り返ったとき、右耳が見えていたのね。それで、アランとかいう男に突き出すのをやめてくれたんだ。
それにしても、形見だなんて。……あの人は死んでないのに、テオったらひどい。今度あの人が帰ってきたら告げ口してやるんだから。
「この薬、一日経てば効果は消えると聞いています。……あの、申し訳ないんですが、服を調達してもらえないでしょうか」
目の前のサー・ロビンソンを見下ろして眉根を寄せると、彼は視線をざっと私の体に走らせて、顔をそむけた。
「わかりました。すぐにご用意します。……カレル様には、テオ殿はお疲れで熱が出たため、今日一日休養すると伝えておきます」
「お願いします」
「それから、少しの間、バスルームにいていただけませんか」
「え?」
「メイドにベッドメイクさせますので。……ああ、もちろん本当に入浴していただいてかまいません。着替え一式は脱衣場の方へ準備させますから」
「わかりました。……お言葉に甘えます」
立ち上がったサー・ロビンソンにつられて私も立ち上がると、彼はじっと私を見下ろしてきた。
「何か?」
「……そうしていらっしゃると、アリス殿に実によく似ておられますね。立ち居振る舞いも、その瞳も」
「え……そう、ですか?」
しまった、テオはこんなおしとやかな口調ではしゃべらないんだ。まだまだ子供盛りだし、そうよね。
「声もよく似ている。目を閉じて聞いていると、まるでアリス殿がそこにいらっしゃるようです」
どう返すべきか逡巡しているうちに、サー・ロビンソンはにっこり微笑んで、部屋を出て行った。
私自身だもの、声も姿も似てるのは当然なんだけど、なぜサー・ロビンソンは嬉しそうに私……というか女体化したテオということになっている……を見るのかしら。
眉間にしわを寄せてうんうん考えていたけれど、わからない。そのうち扉の向こうが忙しなくなってきて、私はとりあえずバスルームに身を隠すことにした。
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