第8話 ここはどこ?
ゆっくりと眠りから覚めていくのを自覚する。
なんだか手触りがいい。手をそっと動かすと、ふわりと花の香りがした。香のにおいじゃない、香水?
うちの布団、こんないい匂いさせたことない。
いつも一番安いシャボン使ってるし、洗いざらしのままだから、柔らかくもならない。こんな柔らかなリネンなんて、うちのじゃない。
おかげでぱっちり目が覚めた。
ううん、血の気が引いた。
見えたのは天蓋とそこからふんわりと広がる白いカーテン。
知らない場所だ。
どこだろう、ここ。
体を起こしてぐるりと部屋の中を見回す。大きな掃き出し窓があるのが見える。窓の外にはベランダがあるらしくて、外は明るい。
反対側の壁にはこげ茶の扉。壁も落ち着いたこげ茶色。どこかの窓が開いてるらしくて、さらりと風が吹いてきた。
「どこ……」
私じゃない。……テオだ。
でも、なんで。
なんで、自宅でない場所なのに、私と交代したの?
ベッドから降りる。テオが履いてたらしい余所行きの靴が置いてあったけど、サイズが合わない。敷き詰められたじゅうたんがあまりに気持ちよくて、裸足で歩いてみる。
鏡は部屋にはなかった。着替えがありそうなタンスなどもない。どこか別の部屋にまとめてあるんだろうか。こんな部屋、どう考えてもお金持ちの館よね。それか貴族御用達の宿。私たちには縁のない場所だ。
テオは、自分から進んでここに来たのだろうか。
掃き出し窓に歩み寄ってそっと取っ手を引き開ける。カギはかかってなくて、あっさり開いた窓から入ってきた風がカーテンを揺らした。
監禁されてるわけじゃないみたい。
外は明るいとはいえ、空気は冷たい。曇りの昼間かと思ったけど、太陽が出てないだけ? だとしたら、日の出前なんだ。
どうしよう。
どこにいるのかわからない、でも監禁されたわけでもないらしい。ベッドサイドを見ると、飲み物や果物が準備してある。何か混入されてると困るから、口にするわけにはいかない。
とにかく、着替えなきゃ。
自分の姿を見下ろすと、上等なリネンの寝間着を着せられていた。テオサイズだから、私には少し……ううん、胸がきつくてはじけそう。この格好でうろつくわけにはいかない。
どこかに着替えられそうな服がないかしら。
部屋の外につながってるらしい扉以外の扉をそっと開けてみる。音もなくするりと手前に開いた扉からは、バスルームが見えた。トイレはさらにその先の扉で、ちょっとほっとする。
もう一つの扉は、ウォークインクロゼットにつながっていた。でも何も置かれてなかった。きっとこの部屋を使う人のためのものなんだろうな。
困った。
どこかに行きたくてもこの格好じゃ行けない。ここに来た時にテオが着ていたはずの服も探したけど、やっぱり見つからない。洗いに出されちゃったのかも。
うろうろ回っていて、鞄を見つけた。テオのお気に入りの鞄だ。余所行きの靴とあわせて、おそらく一張羅をおろしたのね。となると、それなりの立場の人の家。
そういえば、テオを招待した貴族がいたわね。
きっとそう。
ベルエニー子爵だ。ここは彼の館なんだ。
じゃあ、なんで私と入れ替わったの?
薬師としてのテオが呼ばれたはずなのに。
そこまで考えて、ふと耳に手をやった。
いつもつけているあのピアスが……なかった。
「嘘……」
血の気が引いた。
だから、私が出てきたんだ。
もしかして、寝てるときに無意識で外しちゃった? 夜具に引っ掛けて抜けちゃった?
ベッドの周辺を探そうとして、ベッドサイドの果物が置かれているのとは反対側のテーブルにいくつかの貴金属が置いてあるのに気が付いた。
余所行きの一張羅に合わせて買ったカフスボタン。ネッカチーフはジャケットの胸ポケット用のものだ。細い金鎖とメダルは薬師の証。そっか、テオの姿で来たから、私の鑑定士の証のメダルはないんだわ。
それから、黒い丸い石のピアスと、猫のピアス。
震える手で拾い上げ、握りしめる。
よかった。……これがなかったら、私は二度と弟に会えなくなる。
手探りで右耳につける。
ここにいるべきは鑑定士アリスじゃない、薬師テオ。
なくさないように薬師のメダルを首にかけ、もう一つのピアスは左耳につける。
まだ日は登らない。今から二度寝してテオに戻れるだろうか。
……だめね、入れ替わりのためには時間が足りない。
それなら、誰かに見つかる前に姿を隠すべきだ。
テオに戻れるまで、十分な眠りを得られる場所で。
ここじゃない、どこかへ行かなくちゃ。
ベッドからシーツをはがし、体に巻き付けて隠す。不格好な寝間着姿よりはよっぽどいい。
頭もすっぽり隠すように、バスルームの鏡で確認しながら調整してじっと鏡に映る自分を見る。
ピアスがない状態で目覚めた私は、いつもとは違っていた。
テオの色である栗色の長い髪。私の色であるエメラルドのくりっとした目。白くない、日に焼けた肌。
二人分の色がまじりあった、私の姿。
これで私がアリスだと、一目でわかる人はいないだろう。
隠れる場所を探して、できれば女性服も探さなきゃ。
廊下に続くであろうこげ茶の扉と、ベランダに続く掃き出し窓を見比べて、迷う。
どちらに逃げるのがいいかしら?
日が昇る前とはいえ、すでに館の中は人が動き始めているだろう。この格好でふらついていてはすぐ誰かに見つかってしまいそうだ。
掃き出し窓から外に出てみる。ベランダの柵はそれほど高くない上に、直接庭園に出られる扉がある。
庭園はきれいに手入れがされていて、館のそばは目隠しになる高さの垣があちこちにある。
問題は、ここから外に出て、どこに身を隠すか。
見たところ、庭園の反対側には別棟の建物が見える。そこまでの間には東屋らしき屋根も見えた。納屋があればそれが一番いいんだけど、残念ながら庭園から見える範囲にはないみたい。
ベランダから扉を開けて、庭に降りると細かく敷き詰められた砂利が鳴った。
「誰かいるのか?」
いきなり男の声が聞こえて、ぱっとベランダに戻ると床に伏せた。
心臓がバクバク言ってる。人がいるなんて思いもしなかった。
でも考えてみればそうよね。貴族の館だもの、周囲に警備を置かないはずがない。
物音が近づいてくる。こんなところで見つかったら、絶対不法侵入者だと間違われる。貴族の館に忍び込んだ罪ってどれぐらいだろう。縛り首とか言わないよね?
「おかしいな。確かに音がしたんだが」
かなり近くで聞こえた。砂利を踏む音に呼吸も止めた。
お願いだから、そのまま向こうへ行って。ここには誰もいません。気のせいだから、忘れて。
芝生を踏む音が遠ざかっていく。止めていた息を吐きだしたところで、掃き出し窓がからりと開いた。
「テオ殿?」
床に伏せたまま、私は凍り付いた。
顔を上げて確認しなくてもわかる。
声の主は、サー・ロビンソンだった。
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