第57話 火星開拓者募集中

 火星の有人探査が実現していない読者の時代より随分と未来の話なのだが、今回のテーマは技術ではなく、社会の仕組みである。

 マーズ社。生存可能な環境を移住者に提供する機関である。

 

 マーズ社を説明する前に、火星について復習しておこう。

 自転周期は地球と概ね同じ。一方、公転周期は2年弱と長い。

 直径は地球の約半分。2分の1を3乗すると分かる通り、質量は約10分の1。重力は約4割。体重50㎏の人間なら20㎏と身軽になった感じだ。

 火成岩で出来た地表は酸化鉄の粉塵に覆われている。だから、赤く見える。

 大気の構成要素の殆どが二酸化炭素だが、極めて薄いので保温効果は殆ど無い。火星の大気圧は地球の1%にも満たない。だから、地球と比べると、地表に降り注ぐ紫外線やエックス線、ガンマ線が強い。つまり、防護服を着用しないと屋外を出歩けない。凍死してしまうと言う理由も有る。

 平均気温はマイナス50℃程度だが、自転軸が傾いているので、地球の春夏秋冬、北半球・南半球の様な変化が有る。極寒地のマイナス140℃から相対的な極暑地でマイナス30℃と様々だ。

 気温が下がる冬には、大気中の二酸化炭素は凍り付き、極地方に白い極冠を形成する。気温が上昇すると、昇華点がマイナス57℃の二酸化炭素は大気中に戻っていく。

 

 ところで、話は変わるが、“超臨界流体”と言う言葉を聞いた事があるだろうか?

 二酸化炭素を事例に説明すると、御存知の通り、自然環境下の二酸化炭素は液体にならない。個体のドライアイスから気体の二酸化炭素に直接変化する。先の極冠とは巨大なドライアイスの事だ。

 ところで、二酸化炭素は、地球の大気圧の約50倍の圧力を掛けると、常温でも液体となる。火星の極寒の気温だと、地球の大気圧の約7倍の圧力でも液体になる。

 臨界点の31℃で大気圧の約75倍の圧力を掛けると、超臨界状態となる。気体でも液体でもない不思議な状態だ。この状態を超臨界流体と呼ぶ。

 超臨界流体は、化合物の分解や抽出、ナノ粒子合成、次世代セラミック製造等、溶媒の種類に依って、様々な活用の仕方がある。

 先程の二酸化炭素の超臨界流体に戻ると、諸君の時代でも、コーヒー豆からカフェインだけを除去する作業に使われ始めているはずだ。

 但し、二酸化炭素の臨界点31℃は、平たく言うと地球の常温なので、火星で取り扱う優位性は皆無だ。

 ところが、メタンの臨界点は、マイナス70℃前後、地球の大気圧の約45倍に過ぎない。火星の気象環境だと、格段に取扱い易い。

 木星や天王星、海王星、土星の衛星タイタンでも大気中にメタンの存在が確認されている。そして、火星にも存在していたのだ。希薄な大気中ではなく、地中に。

 沸点がマイナス162℃のメタンは、火星の地表面では気体となる。オリンポス火山の麓、程良い圧力が加わる地層に液体状のメタンを発見したのだ。中東の砂漠地帯の下に眠る原油と似た状態である。

 自給自足の生活を維持するのが精一杯だろうと予想されていた火星で、メタンの超臨界流体産業が勃興し、地球との間で経済活動が始まっていた。


 ようやくマーズ社の話に戻る。

 火星の居住空間は、地表に穿うがたれた椀状のクレーター内部に建設されている。ゴルフボールの表面をイメージして欲しい。大気が薄いといえども、強烈な季節嵐が吹き荒れるからだ。

 クレーター表面を覆うようにガラスを張り巡らせている。ガラス材料は火星で採掘した石英だ。

 重いガラス天井を下支えしている鉄骨も火星産だ。重力が地球の約4割なので、幾分は細目の鉄骨構造だ。酸化鉄の粉塵をメタンの超臨界流体で還元させ、鉄と酸素を分離する。メタンの構成元素である炭素が還元作用の触媒として機能する。

 マーズ社のベーシックな機能は、生存に必要な水の生成、穀物の栽培、排泄物の処理だ。超臨界流体産業の経営も行っている。地球との往還船の調整も行っている。火星社会は完全な計画経済であり、全ての運営を担っている。

 火星への植民が始まった当初。移住者は科学者、技術者などのエリートだった。片道3年を要する宇宙船の打ち上げ費用は、アメリカ大富豪の篤志家が賄った。

 埋蔵メタンが発見されるまでは、火星を投資対象と見做す者は1人も居なかった。

 最初の篤志家が財産を枯渇させる直前に、運良く埋蔵メタンが発見されたものだから、状況は一変した。事始めの篤志家は火星探査団を法人化し、株式を売却した。寿命が尽きるまでに使い切れない程の大金持ちになった。

 篤志家から株式を買い入れた投資家達は、ガバナンスを効かせるためにマーズ社と言う組織を作った。

 先に計画経済と説明したが、それは火星社会の運営についてであって、マーズ社は利益最大、出資比率に応じて配当を出す完全資本主義である。火星では金銭を必要としないし、銀行も無いので、マーズ社の売上収入は地球の銀行口座に入金されている。

 さて、超臨界流体産業の隆盛に伴い、火星入植者は急増し始める。エリートではなく、労働者が流入し始めたのだ。彼らは二つに大別される。自ら渡航費用を用立て出来る者と、マーズ社から渡航費用を前借りする者の2種類。


「さあ、今月の給与明細だ!」

 タブレット画面で給与明細を確認する者は渡航債務者。正直、支給金額に関心は無い。関心事項は債務残高である。火星渡航費用は住宅10軒分くらい。莫大な借金だが、給与の方も危険手当が付いてソコソコ高い。それでも、債務完済までには30年程度を要する。

「はあ~。債務残高の減り具合を眺めると、本当に嫌になるな。

 お前は渡航費用を自前で準備できたから良いよな。羨ましいよ」

 同室で暮らす同僚に弱音を漏らす。

「地球出発前に苦労するか、後で苦労するかの違いだろう? 俺だって、地球に居る時は苦労したんだからさ」

「俺もそう思ったさ。でもな、元本が巨額だから金利負担も大きいんだ。こんな事なら、急いで火星に来るんじゃなかった」

「でも、モタモタしていると、加齢で火星に来れなくなるだろう?」

「俺もそう思って、後先考えずに借金して火星に遣って来たんだが、これじゃ借金奴隷だぞ。

 刑務所みたいな火星ドームから外に逃げる事も叶わない」

 ちなみに、渡航費用を自分で準備すると、15年程度も勤め上げれば、復路の帰還費用を払っても一財産ひとざいさんを地球に持ち帰れる。気の毒な事に、火星に行こうと考える労働者の大半は地球で食い詰めた者なので、その様な恵まれた人生を送ったケースは数える程しかない。

 当然ながら、渡航債務者が地球に戻る事も極めてまれだった。債務完済と往路の帰還費用捻出に約40年を要する。老いた身で地球に戻っても、知り合いは全く居ない。

 その代わり、火星二世には借金が無いので、資産形成が可能である。但し、金銭で手に入る奢侈しゃし品は火星に全く無い。資産は財産目録に表示される数字に過ぎなかった。

 人間の移動は、いつまで経っても、地球から火星への一方通行だった。復路の宇宙船には、人間の替りに、超臨界流体産業の製品を積載した。

 穿うがった見方をすれば、マーズ社は、自費渡航者には魅力的な夢を見せつつ、渡航債務者には地球帰還を諦めさせるレベルに、ワザと給与水準を設定したと言う疑惑を拭えなかった。

 だからと言っても、反乱を企てる事は出来ない。火星の暮らしはギリギリなのだ。社会秩序の崩壊は死を意味する。


 借金は計画的に!

 活動の舞台が火星まで広がったとしても、金言は揺るがなかったのだ。

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